第1009回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
自分が渡した雑誌を、弟の幸夫は、随分と気に入ったようで、「 實【みのる】兄ちゃん
こんな物、 ワシが裏山の竹をとってきて、 組み立てたらできそうじゃのう。」と、言うので
明治時代後期の、モーリス ファルマンという飛行機は、 グライダーの様な物で、
簡単な、飛行機の骨格と、 原始的なガソリンエンジンを載せた飛行機でした。
弟が言うように、 竹林で、竹をとってきて、細工をすると、だれでも出来そうな、そんな
感じの飛行機でした。
少し離れていた場所から、弟たちが自分が、東京府の神田の書店で買って来た雑誌を
喜んでみていたのを、 嬉しそうに眺めていた兄の松三が、 「 實、 幸夫が、組み立てた
竹の飛行機なんぞ、乗ってみーー、 少し浮いたら、 車輪が取れて、 翼が折れて、
最後は、椅子だけになりそうなのーーー。」と言うので、 大笑いした後、 「 幸夫、
ここの翼の曲がったところは、 こんなーーどうするんなら。」と、聞いてみると、「 兄ちゃん、
竹を火であぶるんじゃ。」というので、 「発動機は、 どうやってつくるんかのーー。」と、
聞くので、「 わかっとりゃー、ワシが作って空を飛ぴょうるは。」と、こんな話を、兄弟でした
のですが、明治の終わりに、弟の幸夫と同様な事を考えた日本人がいたのです。
こう言う、竹を組んだような、飛行機、ワシでも作れると考えた人は、鹿児島県の
奈良原 三次 【 ならはら さんじ】先生でした。
先生は、明治10年生まれで、 鹿児島の華族の 奈良原 繁 男爵の次男として、
技官として採用され、 代々木練兵場の飛行機の飛行を見学されたそうです。
明治43年の12月14日に 代々木練兵場で、 日本で初飛行という陸軍のデモスト
レーションの飛行展示があったその後、 すぐに構想を練り、 翌年の明治44年の
5月に,奈良原式 という、日本人で初めての自作の飛行機を作り、飛んだわけです。
当時の記録によると、飛んだというか、 浮き上がっただけという話もあるのですが、
日本人が、1から飛行機を作って、 大空へ第一歩を示したというのは、すばらしい
出来事であったわけです。
奈良原先生の元には、 民間から、ぜひパイロットになりたいという人が、
どんどん弟子入りしていき、 日本の民間航空の元祖というか、父親のような
存在になっていきました。
しばらくして、 陸軍の気球部隊に所属していた、 白戸 栄之助さんが、弟子入りし
神奈川県の川崎競馬場で、 奈良原式 4号機に乗って、 空を飛び、 一応、
1911年年4月のこの記録が、 民間人の初飛行という記録になっています。