第1009回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1008話 日本航空界のパイオニア 奈良原 三次 先生の事。2014年11月26日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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       自分が渡した雑誌を、弟の幸夫は、随分と気に入ったようで、「 實【みのる】兄ちゃん
 
       こんな物、 ワシが裏山の竹をとってきて、 組み立てたらできそうじゃのう。」と、言うので
 
       明治時代後期の、モーリス ファルマンという飛行機は、 グライダーの様な物で、
 
       簡単な、飛行機の骨格と、 原始的なガソリンエンジンを載せた飛行機でした。
 
       弟が言うように、 竹林で、竹をとってきて、細工をすると、だれでも出来そうな、そんな
 
       感じの飛行機でした。
 
 
 
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      少し離れていた場所から、弟たちが自分が、東京府の神田の書店で買って来た雑誌を
 
      喜んでみていたのを、 嬉しそうに眺めていた兄の松三が、 「 實、 幸夫が、組み立てた
 
      竹の飛行機なんぞ、乗ってみーー、 少し浮いたら、 車輪が取れて、 翼が折れて、
 
      最後は、椅子だけになりそうなのーーー。」と言うので、 大笑いした後、 「 幸夫、
 
      ここの翼の曲がったところは、 こんなーーどうするんなら。」と、聞いてみると、「 兄ちゃん、
 
      竹を火であぶるんじゃ。」というので、 「発動機は、 どうやってつくるんかのーー。」と、
 
      聞くので、「 わかっとりゃー、ワシが作って空を飛ぴょうるは。」と、こんな話を、兄弟でした
 
      のですが、明治の終わりに、弟の幸夫と同様な事を考えた日本人がいたのです。
 
 
 
 
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          こう言う、竹を組んだような、飛行機、ワシでも作れると考えた人は、鹿児島県の
 
          奈良原 三次 【 ならはら さんじ】先生でした。
 
          先生は、明治10年生まれで、 鹿児島の華族の 奈良原 繁 男爵の次男として、
 
          誕生し、 東京帝国大学の工学部を卒業された、当時の技術屋で、 日本海軍に
 
          技官として採用され、 代々木練兵場の飛行機の飛行を見学されたそうです。
 
 
 
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        明治43年の12月14日に 代々木練兵場で、 日本で初飛行という陸軍のデモスト
 
        レーションの飛行展示があったその後、 すぐに構想を練り、 翌年の明治44年の
 
        5月に,奈良原式 という、日本人で初めての自作の飛行機を作り、飛んだわけです。
 
        当時の記録によると、飛んだというか、 浮き上がっただけという話もあるのですが、
 
        日本人が、1から飛行機を作って、 大空へ第一歩を示したというのは、すばらしい
 
        出来事であったわけです。
 
 
 
 
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           奈良原先生の元には、 民間から、ぜひパイロットになりたいという人が、
 
           どんどん弟子入りしていき、 日本の民間航空の元祖というか、父親のような
 
           存在になっていきました。
  
 
 
 
 
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           しばらくして、 陸軍の気球部隊に所属していた、 白戸 栄之助さんが、弟子入りし
 
            神奈川県の川崎競馬場で、 奈良原式 4号機に乗って、 空を飛び、 一応、
 
           1911年年4月のこの記録が、 民間人の初飛行という記録になっています。
 
          
 
 
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          奈良原先生の元には、 大阪の浪速区恵比須町出身の伊藤 音次郎さんという
 
          人も弟子入りし、 この伊藤さんと言う人は、 千葉県の稲毛に、伊藤飛行機研究所
 
          を設立して、多くの民間パイロットを養成していきます。
 
          1911年こと、 明治44年という年は、 日本の民間航空界の幕開けと言ってもよいと
 
          思います。
 
 
 
 
 
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          こんな話を、弟の幸夫に聞かせると、そばで聞いていた 兄の松三が、「 實、わりゃ、
 
          ようしっとるのーー、 しかし、 奈良原いう先生は、 たいしたもんじゃのうーー、
 
          さすがは東京帝大卒、 ワシの先輩じゃのう。」 と、 こんな話をして、 兄の松三は、
 
          自分が,当時、東京帝国大学の学生だったため、 ずいぶん満足そうでありました。
 
 
 
【次回に続く。】