第1010回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1009話 日本の空の御姫様パイロットの事。
2014年11月27日木曜日の投稿です。
1911年こと、明治44年4月に、神奈川県の川崎の競馬場で、先に紹介した、
東京帝国大学 工学部卒の 若手技術者の奈良原 三次先生が、フランスの
飛行機を模倣し、国産飛行機を作り上げて、 白戸 栄之助 さんが、操縦して、
日本で初めての日本人の飛行機による、日本人のパイロットによる、観覧飛行
が実現したその2ヶ月後、
【 日本で初めての民間人初飛行のパイロット 白戸 栄之助 さん】
ちょうこ】さんという女の子ですが、 その後、随分活発な女子であったようで、日本
女子体育専門学校に進まれて、現在の日本女子体育大学の前身の学校ですが、
円盤投げの選手だったそうですが、 その後、飛行学校に進まれて、 女子の
民間パイロットとして、有名になっていきました。
【 昭和の初期、勇名をはせた、 馬淵 テフ子 さん。】
また、乗っている飛行機の名前が、 白菊号 と呼びまして、 新聞記者が
記事を書きやすい、 目立つ存在でありました。
彼女は、日本海を横断飛行したり、 当時話題の空の姫様だったのですが、
随分義理堅い人で、 また、 行動する優しい人でもありました。
寝たきりとなった、長山 きよ子さんという人の生活をずっと見ていたそうで、
面白い話をしても、 自分の事しか考えない人の多い時代にあって、戦後の
混乱期もありましたが、 なかなかまねの出来ないことをされた徳と、仁のある
立派な人格の人でもありました。
それから、当時もう一人、 有名であった人は、 大正元年生まれの、 埼玉県
松本 キク子さんという人も、 新聞を騒がせた,女子パイロットでありました。
埼玉女子師範を卒業され、 学校の先生をされていたのですが、生徒と一緒に
飛行機が飛ぶのを見学に行かれて、 小学校の教員を退職して、 飛行学校に
行かれて、 民間パイロットになった人で、 この人は、北海道から、飛行機に乗って
のですが、 同じ津軽海峡に、墜落して、 大騒ぎになったことでも、知られています。
大正時代から、昭和の初期にかけて、 ご婦人も 空の道を志す人も出てきたの
です。
が、 また順番に紹介しますが、 昭和12年になると、 ご婦人が飛行機に乗る
など社会常識に反するという、 陸軍の軍人が、法律を改正して、 飛行機に乗れ
なくしてしまうのです。
わかりやすく言うと、 女性には、飛行機の操縦免許を発行してはならないという
法律が制定されて、 それ以後、彼女らは、飛行機の操縦が出来なくなってしま
うのです。
「 おなごが、空を飛んで、新聞を騒がすなど、不届き千万。」と言うわけです。
しかし、戦後になって考えて見ると、当時は腹も立ったでしょうが、彼女たちの
身の安全を考えると、 その方が良かったように思います。
その後、戦争が激しくなり、 彼女たちは、そのまま飛んでいたら、戦火に
巻き込まれたでありましょう。