第1011回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1010話 大正時代の撃墜王 滋野 清武 フランス陸軍大尉 2014年11月28日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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   日本人で大正時代の1番の戦闘機乗りと言えば誰かと言うと、 日本の男爵 滋野 清武
 
   フランス陸軍大尉でありました。
 
   日本人での初めてのフランス外人部隊への志願者であり、 日本人での初めての空中戦を
 
 
   行って、 敵の航空機を撃墜した人であり、 フランス国から、 レジオン、ドヌール勲章や、
 
   クロウ、ドラケール勲章を受賞した、 当時のフランスにあって、 フランスの中の撃墜王でも
 
   り、有名な人であったのです。
 
 
 
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    昭和になって、自分の同期の 生田 乃木次 海軍大尉が、 中国の上海付近の空中戦で、
 
    日本人として初めて空中戦をして云々ーーというお話は、 以前紹介しましたが、 それより
 
    まだ前に日本人は欧州の空中戦で、 大きな足跡と、武勲をあげていたのです。
 
 
 
 
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    江戸時代の後期に、 長州の毛利家で、奇兵隊が組織され、 滋野 清彦 さんという人が
 
    奇兵隊に入隊して、 戊辰戦争に従軍して、 一兵卒から、軍功を重ね、 陸軍中将に
 
    なり、 山縣 有朋 公の 側近として活躍し、 近衛師団長などを歴任し、 男爵を拝領し、
 
    滋野男爵家がスタートするのですが、 清武氏は、その息子でありました。
 
    陸軍の広島幼年学校を、中退して、 東京音楽学校に入学し、 コルネットの奏者としても、
 
    随分上手な人でもありました。
 
 
 
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          1910年こと、明治43年に、音楽の勉強をするために、フランスに留学するのですが、
 
          なんと、 そこで飛行機の虜になり、 飛行学校に通って、 飛行機の操縦の
 
          ライセンスを取り、1912年、大正元年に、日本に帰国して、陸軍の飛行教官に
 
 
 
 
 
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          なるのですが、大正2年から始まった、欧州大戦に志願して、フランス外人部隊
 
          入隊し、 ドイツ空軍と空中戦を行って、6機撃墜をマークして、 当時撃墜王
 
          なったのです。
 
 
 
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          当時、フランス空軍が使用していた、戦闘機というのは、スバットマンⅦ と言う
 
          複葉機で、欧州の空中戦で、 滋野 清武 男爵は、戦闘機を操って、大戦果を
 
          上げて、勲章を2度も受勲し、有名になったのです。
 
 
 
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          これらの欧州での、ドイツ空軍との空中戦の戦訓は、 日本にとっては、まことに
 
          貴重な出来事であり、 日本人が初めて経験する、空中戦であったのです。
 
          自分は、 色々教えを請いたいところであったのですが、たしか、大正12年の
 
           関東大震災の後に、 病死され、42歳という、太くて短い一生を終えられたと
 
          聞いています。
 
 
 
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           それから、 当時の皇族方、華族方を、びっくりさせたのは、 フランスのご婦人
 
           をつれて、大正8年の1月でしたか、エイマール ジャンヌさんと言うご婦人でしたが
 
           帰国され、当時、欧州で武勲をたてて、フランスの奥方を日本に連れ帰ったと言う事で、
 
           新聞に紹介され、 日本人は驚いたというか、 話題になったりもしました。
 
           何事も、 新聞記者が記事にするには事欠かない話題の多い人で、世界の航空
 
           業界でも、当時有名な人であったのです。  
 
           自分は、 新聞や、人づてに、滋野 男爵の欧州大戦の大活躍という話を聞いて
 
           
 
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           いずれは、 我も滋野男爵の後を、 追いかけようと、 当時は野心に満ちて
 
           いたのです。
 
 
    【 次回に続く。】