第1020回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1019話 新しい戦争兵器の技術吸収の事。  2014年12月7日日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
   
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       第一次世界大戦での日本の財閥の欧州での営業所は、 そのまま、軍事情報の
 
      収集場所でもあったのです。
 
 
 
 
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       どのような場所で戦争が行われ、どのような兵器が使用され、 どんな戦果があり、
 
       その後、どうなったかという情報は、 そのまま、我国の陸軍や、海軍に営業する
 
       新しい提案の一つとなっていったのです。
 
       
 
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       また、 そういう兵器を、我国の陸海軍が、興味を持って、法外な金額でも手に
 
      入れようと、どん欲に技術吸収をしていたのです。
 
      それを利用して、日本の商社は、雇用した退役軍人をパイプ役として、商売に
 
      励んでいったのです。
 
 
 
 
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           自分がまだ小学校の高学年であった頃の大正5年前後ですが、日本は、後方の
 
           戦争当事者の病院に看護婦を送り込み、 表向きは、 同盟国に対しての医療支援
 
           と称して、 多くの看護婦をヨーロッパに派遣したのです。
 
 
 
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           彼女らの中には、純粋に、我が身を犠牲にして、 戦傷者に尽くすという考えの
 
           人も多かったのですが、 反面、我国の陸軍などは、 戦争当事者の軍の
 
           戦傷者を観察して、 情報を得ていたのです。
 
 
 
 
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          当時、日本陸軍があの手この手で情報を収集していたのが、毒ガスで、 これらを
 
          吸い込んで、ひっくり返った戦傷者を、どういう症状が出て、 どう治療するかという
 
          事については、まったく情報が無く、 これらを調べて、 我国の備えを行う
 
          必要があったのです。
 
          戦後の現在では、 毒ガスの種類や、症状、 治療法はある程度知られていますが、
 
          大正8年前後は、 ただ、放置して、自然治癒を待つしかなかったようです。
 
 
 
 
 
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          その結果、 多くの兵士に障害が残り、多くの兵士が 部隊全員失明したりと、
 
          悲惨な結果を招いていったようです。
 
 
 
 
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          これらの戦争での痛ましい事案の情報は、 彼女たちによって、多くの情報が
 
          我国にもたらされたのです。
 
 
 
 
 
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          日本軍は、当時イギリスと同盟関係にあり、 我国の輸送船が、地中海で、
 
          ドイツ軍に襲われたりする事件があり、 ドイツの植民地である、山東半島
 
 
 
 
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          チンタオ要塞や、 サイパン島などの南洋諸島に武力侵攻したのです。
 
          そこで、捕虜になった約3900名のドイツ兵も,貴重な情報源の一つだったのです。
 
 
 
 
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          ドイツ兵の捕虜の数は、約ですが、3900名であったのですが、 当時、日本国内
 
          の数カ所に分散され、3年間抑留されたのです。
 
 
 
         
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           それらの場所は、千葉県二宮村、 静岡市追手町、 名古屋市新出来町、
 
 
           兵庫県 青野原、 広島県 似ノ島、 愛媛県松山市大林寺、大分市荷揚町
 
           徳島市万代町、丸亀市下町、福岡県三井郡国分村などであったのです。
 
 
 
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           これらのドイツ軍捕虜の人達の中には、医師や、技術者や、職人が含まれていて、
 
           抑留している3年間の間に、 これらの捕虜を、教師として、 日本人を
 
           そばに、監視と、技術吸収を兼ねて、そばに置いて、 例えばですが、
 
           パンを焼いたり、 チーズを作ったり、 バターを作ったり、ブタの飼育などを
 
           ドイツ兵から教わったのです。
 
 
 
 
 
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          彼等としても、 毎日、日本の麦飯と魚ではあきてきたようで、 ビールを作ったり、
 
          当時日本には、ブタは少なかったのですが、 ブタを繁殖させたりと、 自分達の
 
          食事内容も良くなると言うことで、前向きに取り組んだようで、 そのうちうち解けて
 
          一緒に物事を進めていく上で、 彼等の技術というか、物に対する考え方は、日本人
 
          に多くの影響を与えたのです。
 
 
 
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          戦後、名古屋市に本店がある、敷島製パンという会社の創業者の盛田さんと
 
          言う人も、 この当時にドイツ人捕虜から、ドイツ式のパンの焼き方を習得して
 
          自らの家業にしていった人で、 現在でも大正時代の当時の出来事は、日本人に
 
          生かされているのです。
 
 
 
 
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           当時の日本からすると、異国のドイツ人は、大きな体つきで、初めは警戒した
 
         ようですが、彼等の持っている、医療知識や、食事の作り方、何からなにまで、
 
         目新しい、進んだ技術でありました。
 
 
 
          
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             彼等が演奏する、音楽も目新しい音楽でありましたし、彼等が余暇の
 
 
 
 
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           時間に楽しんでいた、競技も日本人から見ると、 珍しいスポーツであったのです。
 
 
 
        
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           彼等を抑留して、 ドイツ本国に帰国させたのは、大正9年の自分が、
 
           海軍兵学校に入学する1年前、 加計から、広島市内に下宿していた当時の
 
           頃のお話ですが、 その間、日本海軍は彼等から貴重な情報を得て、日本海
 
           の潜水艦の建造、運用、 その他は、非常に進歩したのです。
 
 
 
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           日本の潜水艦のイ号、 呂号 の原型は、ドイツのUボートであったのです。
 
 
 
 
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           日本海軍は、 上海で、2隻のドイツのUボートを接収し、 乗組員から、あの手
 
           この手で、情報を聞き出して、その吸収に努めたのです。
 
           当時の日本人というのは、 あらゆる方法で、西洋諸国の模倣に努めていた
 
           のです。
 
 
 
 
 
【次回に続く。】