第1032回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1031話 「相手の機先を制す。」加藤友三郎 内閣総理大臣の事。2014年12月19日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
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       自分は、大東亜戦争を経て、会社経営を経て、 戦後の混乱期でなかなか、うまくいかず、
 
       航空自衛隊に装備部長という肩書きで入隊し、航空幕僚長を務めた後退官し、
 
       参議院議員に当選して、 政界で20数年間活動していく事になるのですが、
 
       その経験をふまえて、 大正11年当時の、加藤 友三郎 内閣総理大臣の政治手法は、
 
       当時としては、異例で、 鮮やかで、 手の打ちようが見事な手法でありました。
 
 
 
 
 
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           剣道で言うと、 すすっと、間合いをつめ、 切っ先をすべらせて、陸軍の
 
           竹刀を払うと、 左足をバネにして、 力を抜いて、捨て身で打ち込んでいく、
 
           陸軍が、後に引くと、 さらに、間髪を入れず、2本、3本を連続して、相手に
 
           打つ時間を与えず、 何度も命を捨てて、打ちかかっていく、 こういう
 
           江田島伝統の見敵必戦の心で、大きな暴力組織の陸軍に連打をかけて
 
           陸軍に反撃の機会を与えない程度、切り込んでいったのです。
 
           戦後の政治家にはない、 特徴のある政治の手法でありました。
 
           海軍兵学校の武徳殿に、 機先を制すと、 額がかかっていたのですが、
 
           まさに、 その機先を制すの模範的な政治の統帥ぶりでありました。
 
 
 
 
 
 
 
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        それらの政治手法は、外交においても同様で、 陸軍や、外務省に実務はまかせるの
 
        ですが、 思慮深く作戦計画を作り、自分で線路を引いて、関係者が線路から
 
        でないように、見事な統帥ぶりであったのです。
 
        加藤 友三郎 内閣総理大臣が考え出した、シベリアでの外交方針というのは、
 
        なんと、 敵の共産主義国家 ティーヴィーエール共和国と同盟を結んで、
 
        モスクワの勢力を拡大して、 日本が支援していた、シベリア共和国を武力討伐した、
 
        レーニンソビエト共産党の防波堤にしようという作戦でした。
 
 
 
 
 
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            当時の人は、 昨日までドンパチ 戦をしていた相手と、手を結んで、
 
          などと、理解に苦しんだのですが、 陸軍の兵士が安全に日本の内地に
 
          戻れるように熟慮した結果であったのです。
 
 
 
 
 
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           当時の共産革命軍の攻撃は、 武力攻撃の前に、線路に障害物を置いて、
 
           鉄道を転覆させ、 不意に、小銃で攻撃すると言う、ゲリラ攻撃が主体で
 
           あったのです。
 
 
 
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           1度これをやられると、吹雪の中、鉄道を復旧するのは困難極まり、鉄道を
 
         使用して、シベリア中部から、 ウラジオストックに転進するのには、どうしても、
 
         鉄道周辺の安全を確保する必要があったのです。
 
 
 
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           極東の共産国家、ティーヴィーエール共和国も、新たな敵対略奪国家の、
 
           モスクワの共産勢力が、自分達に迫ってきているので、 東の日本と和平を
 
           結び、 軍事援助や、資金援助をもらえれば、懐具合が良くなり、おまけに
 
     
 
 
 
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          数年軍事衝突をして敵対していた日本軍が、自らむしろをまいて、沿海州から
 
          引き上げるというのですから、 1石2丁とふんで、和平交渉は締結され、
 
          ティーヴィーエール共和国は、兵力をモスクワの方に移動させていったのです。
 
 
 
 
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          まる3年殺し合いをしていたので、第三者から見れば、首をかしげる和平で
 
         ありましたが、短期間でまとまり、 陸軍は兵力を内地に戻すことになっていった
 
         のです。
 
 
 
 
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         大正11年後半、 多くの人が犠牲になったシベリア出兵は、ここに終わり、
 
         沿海州で商売をしている日本人の身分や財産は、そのままティーヴィーエール共和国
 
         によって保護されるというお話になっていた様ですが、 数ヶ月すると、日本の現地の
 
         商売人は着の身着のままで、モスクワの共産党政権に資産を取り上げられ、沿海州
 
         から追い出されてしまうのですがまた順番に紹介して行くつもりです。
 
 
 
    【次回に続く。】