第1057回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1056話 大正11年9月の太平洋戦争の素因の出来事。 2015年1月13日火曜日の投稿です。
の護衛の元、 小樽港や、舞鶴港に戻るのですが、当時の陸軍関係者には、
多くの戦死者を出して占領したところを、 手放す口惜しさと、 内地に帰国で
きるという安堵感と、 色々だったようですが、 この時期、 後の大東亜戦争
の素因というか、そういう考え方が、陸軍の高級将校の間に広まったのです。
御国の為にと言うことで、 沿海州に出兵し、 戦火を交え、 多くの戦死者を
出して、何が残ったのかーーー、 何も残らなかったのです。
冬場は、零下-60度にもなり、 多くの兵士が凍傷にかかり、凍死する兵士が
続出し、 ゲリラ攻撃に絶えず 悩まされ、 苦労が多かったのです。
そして、長い冬が終わり、 雪が溶けて、6月後半に、春になったかと思うと、
凍土が溶けて、田んぼの沼地のようになる国土で、補給は難航し、大変な
苦労があったのです。
この地域は、農業にはまったく適していない、 北海道以上に、極寒の不毛の
土地で、 産業と言っても、 夏場の3ヶ月間、 森林の伐採した材木程度の
林業と、 漁業と、 毛皮程度の産物しかなく、 陸軍関係者に、占領しても
仕方がないという考えを植え付けさせたのです。
このシベリアが不毛の大地と言う事が、陸軍内で認識され、 南進派という、
南方の暖かい資源が豊かな地域に進出しようという、考えの素因になって
いったのです。
日本陸軍は、 加藤内閣の発表に合わせて、10月末までに完全撤退という
命令を遵守して、 9月にシベリアからの撤退を、本格化させるのですが、
撤退しなかったでしょうし、 もしかしたら、戦後で言う、太平洋戦争こと、 大東亜
戦争もおきなかったかも知れません。
そして、 そのまま現在まで占領して、 シベリアの開発を行っていたら、日本は
いたのでしょうが、 残念な事に、 当時は石油などは発見されるというか、雪で
そう言う調査も出来ず、 くだらない氷の不毛の土地と言う事で、日本人から
見捨てられて行く事になっていったのです。
【次回に続く。】