第1060回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1059話 空母 鳳翔 艦長 草鹿 龍之介海軍大佐の事。 

                      2015年1月16日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
         
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   大正11年12月27日の年末に就役した、 特務艦 鳳翔 【ほうしょう】のその

 後の艦長であった草鹿 龍之介 【 くさか りゅうのすけ】海軍大佐とは、 概略で

 どのような人物かと言えば、自分が航空参謀で、 真珠湾作戦から、 南太平洋

 海戦までを、 一緒に第1航空戦隊の参謀長として 航空母艦 赤城  航空母艦

 翔鶴 に座乗して 戦われた、 海軍の将官でありました。
 
  昭和19年からは、 聯合艦隊の参謀長に就任され、 大和の菊水1号作戦を自

 ら発令した人でもありました。
 
 
 
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                 【  第1航空戦隊 幕僚 昭和16年 9月 】
 
 
 
第1航空戦隊とは、 通称 一航戦【 いちこうせん 】と呼ばれ、 航空母艦 赤城
 
加賀、 駆逐艦 5隻で構成された、 航空母艦を中心とした艦隊でした。
 
 
 
 
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第1航空戦隊の 旗艦 赤城 【あかぎ】の艦橋の中に、作戦室というのがあって
 
鍵で厳重に施錠されて、 参謀長の草鹿 龍之介 海軍少将が鍵を管理し、 一部

の許可を得た人以外は、入室は禁止されていたのです。
 
この作戦室の主は、 第1航空戦隊 司令長官 南雲 忠一 海軍中将でした。
 
 
 
 
 
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  【   第1航空戦隊 司令長官 南雲 忠一 海軍中将 海兵36期卒 】
 
 
南雲閣下は、 海軍の光のあたる主要の花形ポストをつねに歩いてきたエリートで
 
海軍内の 艦隊派 と呼ばれる派閥の重鎮でした。
 
特に、 駆逐艦巡洋艦の司令の経験が長く、 海軍内では、水雷屋の出身でした。
 
 
 
 
その次の序列が、 第1航空戦隊 参謀長  草鹿 龍之介 海軍少将で、
 
 
 
 
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【  第1航空戦隊 参謀長  草鹿 龍之介 海軍少将  海兵第41期卒 】
 
 
 
草鹿 海軍少将は、 参謀長という職務で、 わかりやすく言うと、 艦隊司令部の
 
幕僚長、兼 副司令長官の役職と言えば、 わかりやすいと思います。
 
 
 
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                    【  草鹿 任一 海軍中将 】
 
 
草鹿 参謀長の 年上の従兄弟の 草加 任一 海軍中将は、海軍兵学校 校長

を勤めた後、 南方の拠点、ラバウルに司令長官として出陣し、 終戦まで持久戦

を展開して、 死守したことでも知られています。
 
 
 
 
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草鹿 龍之介 参謀長は、航空母艦 鳳翔 艦長、 航空母艦 赤城艦長、などを

歴任して後、 日本人で初めて、 ドイツの飛行船 ツエッペリン 号で太平洋を横断し

た人としても広く知られた、 航空屋 と呼ばれる自分と同じ航空の戦術の専門家

でした。
 
 
 
 
 
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その次の序列に、 第1航空戦隊 首席参謀  大石 保 海軍中佐 海兵第48

期卒 第1航空戦隊 航海参謀  雀部 利三郎 海軍中佐 海兵第51期卒
 
そして、その次に、 自分 こと、 第1航空戦隊 航空甲参謀 源田 實 海軍中佐
 
海兵第52期卒、  その次に、第1航空戦隊 潜水参謀 渋谷 龍犀 海軍中佐
 
海兵第52期卒と続き、 第1航空戦隊 通信参謀 小野 寬治郎 海軍少佐 海兵
 
第56期卒 そして、第1航空戦隊 航空乙参謀 吉岡 忠一 海軍少佐 海兵第57

期卒という布陣で、ほかにも軍医長や、 主計長などもいたのですが、 航空参謀は、

2名いて 航空 甲 参謀 、 航空乙参謀 という2つのポストが当時あったのです。
 
 
 
 
 
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真珠湾作戦の時は、 第1航空戦隊の隷下に、 第2航空戦隊、 第5航空戦隊
 
その護衛艦艇部隊の 三川  軍一 海軍中将指揮の 第3戦隊や、阿部 弘毅
 
海軍少将指揮の 第8戦隊  大森 仙太郎 海軍少将 指揮の第1水雷戦隊
 
松村 寛治 海軍中佐指揮の 第2潜水隊、 大藤 正直 海軍大佐 指揮の
       
第1補給隊、 第2補給隊 と 続いていて、 分業して作戦計画を立案し、
 
大石 首席参謀に報告し、 大石首席参謀が、計画案を吟味された後、
 
参謀長の 草鹿 閣下に報告を上げて、 参謀長が熟慮してから決済し、 
 
南雲閣下に要点のみを報告して、 許可を得て命令を発令するという仕組みで
 
ありました。
 
 
 
 
 
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 淵田 美津雄氏の仲介で、 映画 トラトラトラの 制作の調査のインタビュー
 
 を米国人の映画会社の方がたに受けたのですが、 どのような経緯か、
 
 映画の末尾で、 自分に粉する俳優の三橋 三智也さんが、 南雲長官に、
 
 「 長官、 攻撃は反復しなければなりません、 我々は、ここにとどまるべきです
 
 ーーーーーー云々。」  そして、 南雲長官役の 東野栄二郎さんが、
 
 「 それは 違うーーーーー云々。」と、 海軍中将と、海軍中佐が、赤城の艦橋で
 
 口論するシーンがありますが、 名誉にかけて誓って、 あのような事実は実際には
 
 なかったのです。
 
 映画会社 東宝の 演出家、 脚本家の作り話なのです。
 
 
 
 
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また、 戦後の小説家や文屋さん達が、 第1航空戦隊の事を、「 源田艦隊。」

などと、書かれていますが、 当時はそのような事実はまったくなかったのです。
 
自分は、 直接問われたとき以外は、 大石 保 首席参謀に報告して、
 
首席参謀から、 草鹿 参謀長に報告され、決済され、 要点のみを 南雲長官に
 
報告していたというのが実際でした。
 
 
 
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               【  大西 瀧治郎  海軍少将  【当時】  】
 
 
 
 真珠湾作戦は、大西 瀧治郎海軍少将【当時】に依頼され、自分が内密に立てた
 
作戦計画でしたが、隠密に作成し、 大西海軍少将の作戦計画として、軍令部
 
や、 聯合艦隊司令部に提出されたので、 当時の第1航空戦隊の人々は、自分が
 
立案したとは、まったく知らなかったというのが真相です。   
 
 
 
 
 
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それは、 黙っていたのは、自分のためでもあり、大西 海軍少将の顔を潰さぬ
 
為でもあり、第1航空戦隊の幕僚が、 軍隊の命令系統を飛ばして、 よその航空

部隊の参謀長に作戦の絵を描いて、3人の上官を飛ばして渡すと言う事は、良い

ことでは無かったですし、 参謀長の草鹿 閣下にお話ししたのは、戦後になって

からです。
 
 
 
 
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  【  大西 瀧治郎 海軍中将は、敗戦直後 切腹して自刃されました。】
 
 
 つまり、 大西 閣下が 亡くなった後、 随分たってから周囲に公表したのです。
 
 
話は戻りますが、 最後の映画のシーンのように、前に進み出て、南雲司令長官に
 
対して海軍中佐が抗命 【こうめいー 命令に抵抗し反対すること 】 などは、出来
 
なかったのです。   
 
 
 
 
 
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 少し長くなりましたが、 次はいよいよ、特務艦鳳翔の 艦内の様子の紹介です。
 
 
 
         【 次回に続く。】