第1061回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1060話 特務艦 鳳翔【ほうしょう】の内部構造の事。 2015年1月17日土曜日の投稿です。
実は、冒頭紹介した、草鹿 龍之介 海軍中将は、 大正11年当時は、横須賀鎮守府 司令長官
副官という立場で、 以前紹介したように、 少し変わった副官と言う事で、 我が道を行くというか
そんな仕事ぶりであったそうですが、後に、 航空母艦 赤城の ガンルーム という場所があって、
どういう場所かというと、 一般の士官室とは違い、 高級佐官以上がたむろする
部屋があって、 ここで草鹿閣下にお話を聞いたことを紹介すると、当時は、
二通りの推進システムというか、石炭を使用して航行する艦と、 重油を使用して
航行する艦の二通りが混在する状態であったのです。
順番に紹介しますが、 海軍兵学校を卒業すると、 練習航海に出るのですが、
そこで体験したのですが、 石炭を軍艦に積み込むのは、下士官、水兵ともに、
総出で行うのですが、 それはもう、大変な作業で、鼻の中まで黒くなる程度
重労働で汚れる仕事であったのです。
苦労話を紹介すると、長くなるので、また後日紹介する事として、 鳳翔は、
重油を燃料にして 航行する艦として設計されていたのです。
重油にすると、同じ容積の艦艇で、石炭に比べて、搭載量が増え、 つまり余分な
空間が、液体なのでなくなり、 たくさん登載でき、艦の航続力が伸びるわけです。
現代の艦艇は、 燃料タンクがあって、ここに燃料を入れるのですが、当時は
そのような物がなかったのです。
つまり、 世界で初めての航空母艦は、燃料タンクを持たない、給油機関を
持たない、 そういう艦艇であったのです。
【 世界で初めての航空母艦 鳳翔 ほうしょう 就役時 】
では、どうやって燃料を機関室に搬入していたかというと、ドラム缶であったのです。
ドラム缶をゴロゴロ転がして、山積みして出港するわけです。
当然、 たばこなどは厳禁で、火災が発生したり、波のうねりがひどい時は、
ドラム缶が破損しないように、 固定にずいぶん気を使う必要があったそうです。
そうすると、 登載する容積が限られてきて,航続力は15ノットの経済速度で、
1万海里でありました。
全長が165メートル 幅が22メートル 基準排水量が7470トン程度の艦でしたが、
草鹿 閣下のお話では、 漏電の非常に多い艦で、 時には、 ショートして火花が出る
ときもあり、 実にやっかいな艦であったそうです。
毎年、日本海軍は例外もあったのですが、 任期は1年で、 11月から12月
に転勤があり、 8月までは練度を高めて、 9月から1ヶ月程度、 演習が
あるわけです。
ここで、草鹿 閣下のお話では、 航空機を発艦させるために、風上に
艦首を向けて、 全速航行すると、 23ノット前後の速力が発生し今度は、
減速して、 舵を切って、 体制を立て直し、さらにまた増速を機関室に指示
を発令すると、よく機関【船のエンジンの事】が故障するのだそうです。
時の機関長が、 海軍機関学校の首席卒業士官で、 優秀なのですが、
ああいえば、こういう そんな使いにくい人だったそうで、 随分その人を統帥
するのに苦労されたお話を聞いたのですが、
いくら頭がよくて、優秀で、その道のエキスパートでも、組織の一員として、
全体の決まりが守れない人、上の上官を、やり込めてしまうような行動を
取る人というのは、組織には不要という判断が下されるのです。
これは、 戦後の現在の一般社会においてもそうであって、
周囲の事を考えて行動をする必要があるのです。
そう言うわけで、 「 上官の立場をよく考え、 その人になったつもりで
日々の日常業務に取り組んでいく、 上官の事を考えて、 航空参謀として
適切な意見を、意見具申していく事が大切であります。」
自分が、 機関科の事に詳しいからと言って、 知識を披露したり、
機関科に詳しくない、上官の立場を悪くするようなことは軍人として慎ま
なければなりませんし、 それが、 上官のためではなく、 自分のためでも
あったのです。
参謀という役職は、 意見を言えても、決定権は無かったのです。
自分がこうしたらよい、 やりたいと思っても出来ないのです。
なかなか難しい役職でありましたが、 また苦労話は順番に紹介したいと
思います。
次回は、 鳳翔に登載する航空機についてお話ししたいと思います。
【次回に続く。】