第1064回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1063話 三菱内燃機株式会社の事。   2015年 1月20日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
     
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        日本海軍では、 日露の日本海海戦の戦訓で、 軍艦の喫水線より上部を砲撃で
 
       破壊しても軍艦は、隔壁で仕切られた、水密構造となっていて、 なかなか沈没しない
 
       というデーターが得られ、軍艦を上空から、爆弾で攻撃しても、 戦艦の分厚い装甲に
 
       守られて、 爆弾がはじかれて、 海中に落ちたり、 決定的な致命傷は与えられないという、
 
       そういう考え方が広がっていったのです。
 
 
 
 
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           大正11年当時、 まだ急降下爆撃は、考え出されていなくて、 水平爆撃が
 
           主流でありました。
 
           この分野で、研究者として有名であったのが、 先に紹介した、 樋端 久利雄 氏
 
           や、 淵田 美津雄 氏 でありまして、 彼等の研究によれば、当時の新鋭戦艦
 
 
 
 
 
 
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           長門陸奥 クラスの 砲塔の装甲を突き破って、 破壊するには、 実験では
 
           800キロの鉄鋼爆弾 を使用して、 高度4000メートルより 投下して、命中して
 
           初めて可能であるという結論に達したのです。
 
           戦闘機屋の自分が、「貴様、2千メートルや、3千メートルでは、どうしてだめなのか。」
 
           と、問うと、彼等の返事は、「研究では、落下速度が不足し、 分厚い砲塔の装甲を
 
           突き抜くのは難しい。」 という解答でありました。
 
 
 
 
 
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           このような研究から、 昭和16年の真珠湾作戦では、淵田 美津雄 海軍中佐 
 
           直轄指揮の水平爆撃隊は、 高度4000メートルより、 800キロ 鉄鋼爆弾を
 
           投下することになっていくのですが、 命中率が非常に低かったのです。
 
           それはなぜかというと、 富士山よりも高い高度から、 投下した場合、気流で
 
           爆弾が流れてしまうのです。
 
 
 
 
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            そのような経緯で、 日本海軍では、「 爆弾では、軍艦を沈没せしめる
 
            事は大変時間がかかり、 効果が低い。」 という考えが、染みついていった
 
            のです。
 
 
 
 
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           ミッドウェイ海戦の時に、 陸用爆弾を取り外して、 魚雷や、 艦船攻撃用の
 
           鉄鋼爆弾に交換して、 装備し直して、攻撃隊を出すという決断は、 草鹿参謀長の
 
           決定であったのですが、 当時も、 陸用爆弾では、艦船に対して効果が期待でき
 
           ないという考えがあったわけです。
 
           どうせ、命をかけて出陣するのであれば、 正攻法で、ちゃんとした装備で、
 
           ちゃんと、 護衛戦闘機をつけて攻撃隊を出発させないと、相手も防空戦闘機を
 
           艦隊の上空に上げてくるのはわかっていたので、 そう言う決定をされたのです。
 
 
 
 
 
 
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            ところで、大正8年当時、 上記のような考えが海軍内の大勢を占めていて、
 
            魚雷を航空機に登載して、 空飛ぶ水雷艇を作ろうという考えに沿って、
 
            日本海軍の初めての艦上攻撃機の試作の情報を入手した、三菱財閥
 
            実質的経営者の 貴族院議員  加藤 高明 氏は、 当時、 三井、三菱、
 
            住友、 大倉、 鈴木 など、 多くの財閥の中で、いち早く航空機の製造に
 
            手をつけた、 先見の明のある経営者であり、政治家でもあり、恐ろしい人でも
 
            ありました。
 
 
 
 
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          尾張藩の下級武士の手代の家の服部家の次男に産まれ、 加藤という、お金持ち
 
          の家に養子に行き、 東京帝国大学を卒業し、 三菱に入社して、 三菱の跡継
 
          ぎ娘と結婚し、 戦後で言う、 逆玉の輿に乗って、 その後 内閣総理大臣まで上り
 
          つめる人ですが、 「 将来、航空機は主要産業になる。」と、確信を持ち、積極的に
 
          他の財閥が、見向きもしない頃、 三菱は、航空機の生産に入っていったのです。
 
           当時、日本には、飛行機を作る技術も、人もいなかったのです。
 
          そこで三菱がとった方法というのは、 三菱の造船部門の神戸工場の人材を
 
          航空機部門に回して、 新しく 三菱内燃機株式会社という、会社を、1920年
 
 
 
 
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                  【  大正時代後期の 三菱内燃機(株)の工場  】
 
 
          大正9年に愛知県に設立したのです。
 
          そして、自身が、英国に駐在していた頃のつてをたどって、 高額の給与で、
 
          イギリス人 技師 を招聘して、 設計図をイギリス人に作らせ、それに元図いて
 
          三菱内燃機(株)で、造船所の技術者を中心に飛行機を国産化していこうと、
 
          考えたわけです。
 
 
          そして、三菱が契約したのが、 イギリスの航空機メーカーの、ソッピース社の
 
          ハーバート、 スミス 氏 と言う 、 飛行機のデザイナーであったのです。
 
 
 
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          日本の野党 憲政会の党首、 加藤 高明 貴族院議員は、 高橋 是清内閣を
 
          揺さぶって、帝国議会を紛糾させ、 内閣総辞職に追い込んだりする,政界の策士
 
          であるとともに、 航空機の分野では、本格的に、航空機の生産に興味を示し、
 
           大きな資本を投下していった、財閥の経営者であり、  日本の飛行機は、 海軍
 
           の加藤 友三郎 海軍大将の進める軍縮で仕事を失った、 造船技師の人達によって、
 
           愛知県で始められたのです。
 
 
 
          【  次回に続く。】