第1065回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1064話  3種類の艦上機の設計の事。    2015年1月21日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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        日本海軍では、 欧州大戦【戦後の呼び方で、第一次世界大戦の事】での戦訓から
 
        航空母艦から、 偵察機を飛ばして、 敵の動勢、位置を把握し、 攻撃隊を発艦させ
 
        その攻撃隊を護衛する戦闘機の必要性を認識し、 艦上戦闘機と、 艦上偵察機と、
 
        艦上攻撃機の3種類の航空機を揃える計画が作られたのです。
 
 
 
 
 
 
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           三菱財閥の 実質的 経営者の加藤 高明 議員は、この情報を入手すると
 
           三菱で、この海軍の艦上機の調達計画を独占し、一儲けしようと動いていき、
 
           あの手この手で、 この海軍の発注計画を、すべて三菱で請け負うことに
 
           全力を挙げたのです。
 
 
 
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         1番はじめに、三菱内燃機株式会社で始まったのが、 大正8年から着手された
 
         艦上攻撃機の設計でありました。
 
         三菱が契約した、 イギリス人のハーバート、スミス 技師が設計したのは、
 
         重たい魚雷を航空機に搭載するため、 翼を三枚翼にした飛行機でありました。
 
 
 
 
 
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         当時の考えでは、 翼を増やすと、揚力を得やすくなり、 早く飛び立てたり、
 
         旋回性能がよくなるのですが、 反面、 機体重量が増加し、風の抵抗がまして
 
         速度が低下するという欠点がありました。
 
 
 
 
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         短い滑走距離で、航空母艦の飛行甲板から、 甲板の風を頼りに飛び立てて、
 
         重たい魚雷を下部に登載して、 浮き上がる飛行機と言う事で、 10式艦上攻撃機
 
         という巨大な2階建ての家程度ある高さの艦上攻撃機が出来上がったのです。
 
 
 
 
 
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        この大正11年8月に完成し、初飛行した10式艦上攻撃機は、 当時としては大型の
 
        発動機を登載していて、三菱が英国から法外な金額で輸入した ネイビア、ライオン
 
        液冷W型12気筒450馬力の強力な発動機を登載していました。
 
 
 
 
 
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        18インチの魚雷を登載し、 速度は200キロ 航続距離 約500キロ という性能でした。
 
        英国人の、 ハーバート、スミス 技師は、 三菱内燃機の要望で、 艦上戦闘機
 
        艦上偵察機を相次いで設計し、 どんどん日本人の手で、世界で初めての艦上機
 
        製造されていったのです。
 
 
 
 
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              【  日本で初めて作られた、10式 艦上戦闘機  三菱内燃機(株) 】
 
 
 
          この日本で初めて製造された、つまり、世界で初めて製造された艦上戦闘機
 
          10式艦上戦闘機は、 航空母艦の上空の防空と、 攻撃隊の艦上攻撃機
 
          護衛を目的に、イギリス人のハーバート、スミス 技師によって設計されたのですが、
 
          発動機は イスパノ、スイザ製のHSー8Fという輸入発動機を登載し、 速度が215
 
          キロ、 航続距離が約500キロ 7,7ミリ機銃2丁という武装でした。
 
 
 
 
 
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        同様に設計された、 10式艦上偵察機は、2人乗りで、 大正11年1月に初飛行し、
 
        最高速度は、約200キロ 航続距離は、約750キロ 90キロ爆弾が登載可能で
 
        ありました。
 
 
         つまり、 大正7年から、世界で初めての艦上戦闘機、 攻撃機偵察機を 
 
        整備する計画が出来、 それを 財閥の三菱が日本海軍から独占して受注し、
 
        日本人に作る事が出来ないというか、 技術者がいなかったので、 イギリス人の
 
        ハーバート、スミス 技師を、 高額の好条件で招聘し、 図面を書いてもらい、
 
        発動機【 戦後のエンジンのこと】は、 当時、日本人には作れなかったので、
 
        イギリスから、法外な値段で買い付けて、 日本に海路輸送し、愛知県の
 
 
 
 
 
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                  【  大正時代後期の愛知県内の三菱内燃機(株) 】
 
 
            三菱内燃機(株)で 組み立てるという手法がとられたのです。
 
           とてつもない海軍の予算をかけて、事業が進められ、大正10年に、
 
           軍縮の予算削減などで、 鳳翔の建造が止まったりしたのですが、いよいよ
 
           大正12年初頭から、 その運用実験が始まることとなったのです。
 
 
 
 
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       実は、この出来事は、その後の日本が大東亜戦争に敗戦していく、原因のひとつの
 
       海軍機と陸軍機の 部品の交換性がない、 操縦レバーの違いや、弾薬の共通性
 
       がなくなっていったという、 原因の始まりでもありました。
 
       ここで、先々の事を考えて、海軍が、 陸軍のフランス式に統一しておくと、 その後、
 
       生産設備の機械のラインも、 二通り作らなくても、ひとつですんだわけで、 プロペラも
 
       陸軍と海軍で違う、機銃の弾薬も、 陸軍と海軍で違っていて、 お互いが交換して使用
 
       が出来なかったのです。
 
       当然、生産設備も2重に必要となっていったのです。
 
 
 
 
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          「 わしが、わしが。」、  「 陸軍が、陸軍が。」 「 海軍が、海軍が。」 こういう
 
          考えが、 この大正11年前後に、 20年のちに深刻な補給の問題となっていく、
 
          海軍の装備と、陸軍の装備の交換性がないという、 重大な欠点となっていくのですが、
 
          大正12年からいよいよ、 世界で初めての航空母艦の運用が始まろうとしてい
 
          たのですが、世界で初めての試みは、多くの問題が次々露呈していったのです。
 
 
 
         【次回に続く。】