第1066回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1065話 横須賀 海軍航空隊の事。   2015年1月22日 木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
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   自分が在籍していたこともある、横須賀海軍航空隊 と言うところは、ちょうど

追濱の戦後の日産の工場の近くに、戦前は飛行場があって、つまり、戦後の海上

自衛隊や、米軍の海軍基地の北側の半島部分に、大きな飛行場があったのです。
 
 新しい飛行機や、新しい飛行実験などを当時から行う部隊であったのですが、 

茨城県阿見村の飛行場と連絡を取りながら、鳳翔の搭載予定の艦載機の実験

も当時行われていったのです。
 
 
 
 
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  ところで、 少し話が10年ほど戻ってしまうのですが、この日本で初めての特務

艦 鳳翔の建造と実験を強力に推進していたのは誰かというと、実は海軍の実力者

で、本省派の首魁、山本 権兵衛海軍大将でありました。
 
 
  
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          【  日本海軍の実力者 山本 権兵衛 元内閣総理大臣 】
 
 
       
 どんな仕組みになっていたか、当時の様子を簡単に説明すると、フランスの航空機
 
モーリスファルマンで、 水上機母艦 若宮 から発艦して、 ドイツ軍のチンタオ要塞

を偵察したり、 爆撃したりしたメンバーが主体となって引っ張っていたのですが、そ

の人達が御輿を担いでいたのが、 山路 一善 海軍中将でありました。
 
 
 
 
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山路 海軍中将は、海軍兵学校 第17期卒の秀才で、 山本 権兵衛海軍大将

の次女を妻にしていて、 山本 権兵衛海軍大将の義理の息子でありました。
 
骨組に布を貼り合わせただけの、 グライダーのような、モーリスファルマン飛行機

で、爆弾を縄で括りつけ、包丁で切って、爆弾を落とし、 26年式拳銃で、地上を

射撃していた当時の日本海軍航空隊のメンバーは、 当時の若宮の艦長であった、

山内 四郎 海軍少将 【海軍兵学校 第21期 卒】を中心にして、 日本海軍の

航空隊の充実に力を入れていったのです。 
 
 
 
 
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               【  フランス製のモーリスファルマン 飛行機 】
 
 
 
 
 
 当時の搭乗員であった、 相原 四郎 海軍大尉 【海兵第29期卒】は、ドイツに
 
 留学して、飛行機の技術習得に勤めていた最中、 飛行船の墜落事故に遭い、
 
 殉職し、  もうひとりの 金子 養三 海軍大尉 【海兵第30期卒 後の海軍少将】
 
 は、フランスに渡って、 航空機の技術収得に勤め、 その後、イギリスに移動して、
 
 航空母艦の元祖となる、 飛行甲板を備えた艦艇の構想資料を日本に持ち帰って
 
 きたのです。
 
つまり、 日本の航空母艦の建造の構想の出だしは、 金子 養三 海軍少将が
 
イギリス人と会話をしていて、 得た情報から、 日本で世界で初めてやってみよう
 
と言う考えに発展していったのです。
 
 
 
 
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もうひとりは、河野 三吉 海軍中佐【 海兵第31期卒 】は、アメリカに渡り、航空

機の技術習得に努め、 そして、 後に、鳳翔の艦長や、赤城の艦長を勤めること

になる 和田 秀穂 海軍中将【  海兵第34期卒 海大第17期卒 】も その

メンバーでありました。
 
 
 
 
 
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 明治45年に、海軍航空技術委員会が組織され、 その後の大正5年 航空三

隊計画が作られ、 第一次世界大戦のチンタオ要塞爆撃の搭乗員が中心となって、
 
日本の航空母艦の構想は、 水上機母艦 若宮 から、 さらに進歩し、 大正11年
 
に鳳翔へと進んでいったのです。
 
 
 
 
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 そして冒頭紹介した、横須賀海軍航空隊で、鳳翔に登載する機体の操縦訓練と
 
発艦、 着艦を想定した、 地上での訓練が、 当時の司令の丸橋 清一郎 海軍
 
大佐の指揮で、計画され実行されていったのですが、 何事も当初はトラブル続きの
 
苦労と苦闘の連続でありました。
 
 
 
         【 次回に続く。】