第1067回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1066回 初めての艦上攻撃機の欠点の事。 2015年1月23日 金曜日の投稿です。
場所に、当時飛行場があって、 ここが海軍横須賀航空隊の本拠地でありました。
明治時代、2種類の魚雷を イギリスから輸入していた日本は、 大正時代に入って
見よう見まねで国産化して、 上の画像の様な魚雷を製造し、 この10式艦上
攻撃機に登載して、装薬のない訓練用の魚雷で訓練を始めたのです。
当時の横須賀海軍航空隊の司令の田尻 唯一 海軍大佐が指揮をとり、 飛行場の
滑走路に、 特務艦 鳳翔の飛行甲板になるであろう寸法を、ロープで区切って、
ここを、鳳翔の飛行甲板に見立てて、 離発着するという訓練を開始したのです。
世界で初めての試みで、仕方がないと言えば、仕方がないのですが、海軍側が
こう言う飛行機を作ってくれと、性能要求書に基づいて、 三菱が契約した
ハーバート スミス 技師が、設計したのですが、 当時、 パイロットが一人で
操作できるようにという、要望書が出ていたようで、 それに元図いて、飛行機が
出来てみると、 すべてを一人で飛行機を扱うのが、難しかったのです。
そうして、 三枚の翼の 3葉機は、 風に非常に敏感で、 重たい魚雷を登載して
2枚翼と比較して、早くは浮き上がったのですが、 広島のお国言葉で言うと、
海上で、横風を受けた場合、 「 横に転んで、 さでくり転げる。」と言うのですが、
翼が横から風を受けて、 浮き上がってしまい、 上手にコントロールしないと、
海上の横風で、横に回転してしまうのです。
つまり、横風の強風を受けると、 一回転して 壊れてしまうのです。
重量のある魚雷を、下部に登載すると言う事で、大きなエンジンを取り付けた結果、
機体が大きくなりすぎて、 大変扱いにくい機体であったのです。
そして、何度も、何度も、 繰り返し飛行訓練が行われて、データーが滑走路で
集められたのですが、 発艦は何とか出来ても、 他の航空機も同様であったのですが、
着艦が出来ないという、 そう言う結果が出たのです。
鳳翔 の飛行甲板は、 幅が22メートル 長さが 165メートル、
1番後の艦尾から、 車輪にブレーキをかけて、発動機の回転を上げていき、
最高潮に達したところで、 車輪のブレーキを解放して、 飛び立つのは、なんとか
出来たのですが、 1度空を飛んで、 鳳翔の飛行甲板に着艦するという想定で
着陸した場合、 わずか165メートルでは、 飛行機は止まる事が出来ず、
そのまま、海に落ちてしまうと言う、実験結果となったのです。
も、 10式艦上偵察機も、 3機種とも、 搭載予定の鳳翔の飛行甲板では、
オーバーラーンしてしまい、 止まる事が不可能という 実験結果となったのです。
これには、当時の関係者は、 ため息しか出ず、 このままでは、計画が頓挫
するので、何かよい智恵は無い物かと、 イギリス人と、日本人で知恵を
搾ることになっていたのでした。
[次回に続く。]