第1073回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1072話 吉良 俊一 海軍大尉の救出の事。 2015年1月29日木曜日の投稿です。
大正12年の3月5日、 日本人による初めての、10式艦上戦闘機による、特務艦 鳳翔
【ほうしょう】への着艦実験は、 関係者が見守る中、 あっという間に、 吉良 機は、左弦の
海中に、落下してというか、 頭から海水に着水してしまったのです。
ここで、ひとつみなさんに、鳳翔の操舵の方法と、 艦の操舵の状況を説明
しますと、 鳳翔を操舵する、 操舵室というのは、 飛行甲板の下の前にあって
昭和の赤城や、加賀と違って、 飛行甲板の下にあるのです。
つまり、 操舵室からは、飛行甲板が屋根の上にあるので、視認出来ないので、
見張り塔という、島型の見張り台があるのですが、 そこから伝声管で、 飛行甲板
下に連絡することになっていたのです。
見張り台の当直は、 愚直に、 見たことを伝声管で、 飛行甲板下の、
操舵室に報告するのです。
「 左弦、 飛行機、 海中 落下。」 と、大きく叫びますと、
伝声管という、 管を伝わって、 声が下に届くのです。
その下で聞いていた、水兵は、 愚直にそれを聞き取って、 大声で、
「 左弦、飛行機、 海中、落下。」 と、大声で叫ぶのです。
そして、操舵室の当直士官は、 その報告を聞いて指示を出すのです。
当日は、 豊島海軍大佐が指揮をとっていたので、 「 両舷停止、急げ。」
と指示を出すと、 又々、 艦の後尾の機関室まで、 伝声管でつないでいったり、
最悪の場合は、駆け足で、伝令が出たのです。
大正時代は、 戦後の艦艇のように、通信設備が整っておらず、 命令を
伝達するのにも大変であったのです。
そして、艦艇というのは、 陸上の車と違って、 ブレーキを踏んだら、 直ぐ
止まると言う事が出来ないのです。
当時、 23ノット前後の全速航行をしていると、 時速約50キロ程度で航行していたの
ですが、 機関停止をして、 停船するまでに、 ひどい場合は1キロ程度進んで
止まるというそんな感じであったのです。
そのような事はわかっていたので、 後方の随伴艦に、救助を依頼するわけです。
当時は、何事も、手旗信号か、発光信号で、 前後の艦艇は、 その信号で
意思疎通を図っていたのです。
左弦後方、500メートルに位置していた、水雷艇では、「 吉良機、水中、着水セリ。」
と、見張りが大声で叫ぶと、 急いで右に転舵して、救助に向かったのです。
水雷艇の見張りも同様で、ただただ愚直に、見えたことを大声で叫ぶのです。
例えば、「 右フタじゅう度、 距離400、 航空機、 海中落下着水。」
と,報告しますと、 見張り士官がいて、 それを聞いて、床下の艦橋に伝声管で
大声で、「 右フタじゅう度、 距離400、 航空機、海中落下着水。」と、
報告するわけです。
当時の艦の中の連絡というのは、 こんな案配で、 海軍兵学校で、大声で
挨拶の練習をさせられるわけは、 大声を出さないと、 騒音の激しい海上では
聞こえないというのが、実情であったのです。
また、ある程度の大型艦は、手前で停止しないと、 艦がすぐには停止
出来ないので、 手前で停船して、 救助を待つ吉良大尉を、救命ボート、つまり、
ランチで、救助しに行くわけです。
ところで、幸いなことに、 吉良 俊一 海軍大尉は、 かすり傷程度で、
後方の随伴艦艇に救助されたのですが、 次の午後からの再実験に、
「 今度こそは、 着艦を成功させて見せます。」 と、 自ら志願して、
再度、 午後から操縦幹を握ることになったのです。
ずぶ濡れになって、 再度着替えをした、 吉良 俊一 海軍大尉は、
横須賀沖合の午後からの着艦実験に、 再度志願して、 飛び立っていった
のです。
戦後の現在では、 原因究明と称して、実験はすぐ中止になったでしょうが、
当時は、午後からも着艦実験が続けられたのです。
大正12年3月5日 の午後、 もう一度、鳳翔への着艦実験が開始された
のでした。
【次回に続く。】