第1128回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1127話 新 海軍大臣 財部 彪 海軍大将の事 2015年3月25日 水曜日の投稿です。
大正12年の春、 第54期の入学式が終わって約1ヶ月後、 5月に入って2日後、
5月2日の水曜日の日に、 広島市内の 国防婦人会の面々が、宇品から船に乗って
海軍兵学校を訪れ、 自分達の授業や、行事、 などを見学しにやってきて、 当時の
国防婦人会というのは、 例えば、 召集令状が来て、出征する時に、父子家庭の
場合、残された子供を代わりに預かって養育したり、 戦地に送る慰問袋などを作ったり
いろんな活動をしていて公益につくす団体でありました。
反面、 陸軍の別動婦人部隊というか、そういう活動をしていたというのも事実で、
戦後の平和マンガの、はだしのゲンに出て来る、竹槍などの軍事教練などや、防火訓練
などを主催したりと、幅広い活動を当時行っていたのです。
この国防婦人会という組織は、明治時代から全国の連隊のある都市などに設立され、
いろんな活動を行っていく事になるのですが、 その後、陸軍省の思惑で、
昭和の12年前後から、 愛國婦人会という全国組織に衣替えしていくことになります。
その日に、自分と同期の第52期の福岡 秀作生徒が、発熱の症状を訴えて、
軍医どの所に担ぎ込まれて、 「 腸チフスではないか。」と、大騒ぎとなり、 国防婦人会の
面々も、 大急ぎで兵学校を後にするという、 そんな騒動があって、 実はその後、
福岡生徒は、 普通の風邪であったそうですが、 当時、 予定されていた行事が、
病原菌の拡散を防ぐ為中止となったのです。
辞任し、 その後、 新しい海軍大臣として、 財部 彪 【 たからべ たけし 】
海軍大将が就任したのです。
その絵を描いて、実行していったのは、山本 権兵衛 海軍大将でありました。
あり、 辞任し、 その後、陰の実力者として、 山縣 有朋 公とならんで、
協調しながら、海軍を動かしていた人でした。
山本 権兵衛 さんの取り巻きを、 海軍の本省派 【ほんしょうは】と呼んで、
海軍省の要所のポストを、 本省派で固めて、手出しが出来ないような、
そんな感じでありました。
【 財部 彪 たからべ たけし 海軍大臣 】
山本 権兵衛さんの 長女を嫁にしていた、 山本権兵衛さんの義理の息子でした。
そのような事情で、 財部 海軍大将は、 通常ではありえないスピードで階段を
2段飛び、 3段跳びで 飛んでいくような形で、 山本権兵衛 海軍大将の
後楯で、出世していったのです。
山本権兵衛 海軍大将は、 加藤 友三郎さん補佐という、表向きの理由で
義理の息子の 財部 彪 さんを、海軍大臣に据えて、 裏では、 加藤 友三郎
海軍大将が、病気で倒れた場合の事を考えて、 日本の政界に一手を打った
のでした。
【明日に続く。】