第1129回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
1923年 大正12年5月15日 海軍大臣に就任した、財部 彪 【 たからべ たけし】海軍大将は、
のです。
何を視察に来られたのかと言う事については、一切知らされなかったのです。
海軍中将などの出迎えを受け、 なにやら話ながら、校長室の方に消えていったのです。
「 ほうーーーー、たいしたもんじゃのう。」 と、 こんな事しか当時思わなかったのです。
1ヶ月後、 自分達に噂が広がったのですが、 この時にどうも人員整理の命令が、海軍大臣
から直接、 海軍兵学校の校長の 谷口閣下に対して発令されたようです。
【 当時の海軍大臣 財部 彪 海軍大将 】
その内容というのは、当時1号生徒、 つまり自分達のひとつ上の学年の第51期の生徒が
当時 約254名在籍していたのですが、 7月に卒業したら、 海軍兵学校の生徒は約350名
程度に減少するのです。
3クラス 900名に対応する 監事、教官、監事附、文官教師、一般小僧 【 一般の江田島在住の
一般職員】が配置されていたのです。
【 当時の海軍兵学校 校長 谷口 尚真 海軍中将 】
海軍大臣の 財部 海軍大将は、ピーク時の3分の1程度に生徒が減少したので、監事、教官、
監事附については、 他の鎮守府、艦隊に転勤させ、 一般人の、文官教師、一般の小僧を
第51期の卒業式の後、大量解雇するよう、江田島を訪れて、谷口 海軍中将に命令を発令
したようです。
当時、海軍兵学校の生徒や、職員にはこのことは内密にされ、そして周到な準備の後、
ひと月後、 校長先生から、1人ずつ解雇通知を受け取ることになっていったのです。
当時の52期の生徒が、いつかは海軍から首にされると噂が立って、
そのピークに達したのは、大正12年の夏場でありました。
淵田 美津雄氏などは、 当時 ピリピリして 深刻に考えていたようです。
それはなぜかというと、 故郷に海軍を解雇されたと言って、戻るわけには
いかなかったのです。
それは自分も含めてみんな同じであったのです。
江田島の人達はこの事件の事を、財部台風と呼んだのです。
【 明日に続く。】