第1130回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1129話 加藤内閣総理大臣 病に倒れるの事。 2015年3月26日 金曜日の投稿です。








     1923年 大正12年 6月に入ると海軍兵学校では、 角力 【 すもう 】の授業が


    始まったのです。



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      海軍兵学校では、明治の頃から、剣術、柔術、 角力 は、3教科平行して行われて

      いたようですが、自分達の少し前からは、 選択式となり、 剣術、 柔術のどちらかを

      選んで履修し、 当時 角力は授業が全員6月に集中して行われたのです。





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           その理由というのは、よくわからないのですが、 梅雨の雨の季節が関係して

           いるようでした。

           昭和の戦後、 すもう は、相撲 と書くのが一般的ですが、自分達の大正時代は、

           そのような文字は使わず、角力 と書いて、 すもう と呼んだのです。





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           そういう、語源などは、淵田 美津雄氏が 古典などは詳しいのですが、

           昔の 牛の角合わせから、意味合いが来ているようです。

          




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            海軍兵学校で、角力の授業が行われていた頃、 東京府では、加藤 友三郎


            海軍大将が、内閣総理大臣に就任して、1年が過ぎたのです。


           当時の暴走する、陸軍の 薩摩閥の上原 勇作 陸軍元帥の一派と対立しながら

           当時不可能と言われていた、陸軍をシベリアから撤退させる事を強力に推進し、



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           また、欧米からも、 命がいくらあってもたらない、陸軍にそのうち暗殺されるであろう

          と噂され、 命をかけたその仕事ぶりには、 驚きの目が向けられていたのです。




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           当時の 摂政 東宮 裕仁殿下 【 後の昭和天皇 】も、その政治手法には、

          いたく感心されていたようです。

          というのが、 それ以前の 高橋 是清 内閣は、政治が混乱するだけで、帝国議会



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         開かれても、空転するのみで何も決まらず 内閣が総辞職してしまったので、よけい

         次々、 てきぱき 進めていくので、 皇室から見ると、非常に内閣総理大臣として

         優れていると見えたようです。




   
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          加藤 友三郎 内閣総理大臣は、 陸軍を、勅許 つまり、摂政殿下の命令である

         として、 次々、思惑通り手を打ち、 陸軍の言う事を聞かない面々に、圧力を

         加えながら、軍縮と、シベリアからの撤退を進めていったのですが、 ついに、

         6月後半、倒れて、立てなくなったのです。



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        その病状とは、軍縮で戦艦が スクラップにされ、どんどん解体されるように、

        食事が取れなくなり、 細い体つきが、さらに痩せていき、床に伏したのです。

        これらの事は、 山本 権兵衛 海軍大将に報告され、 かん口令が敷かれ、内密に

        されたのです。

        と言うのが、こう言う情報が 陸軍の中に流れると、 また、上原元帥達が、どのように




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        うごくか、見当がつかず、 政局が混乱するのを防ぐ為であったのです。

        関係者は、 加藤 友三郎 内閣総理大臣 の病気のことは一切口外することなく、

        また、新聞記者にも悟られることなく、 月日が過ぎていったのです。



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        それはどうしてわからなかったかというと、大事なときだけ、体にムチを打って、

        行事に出席し、もともとが、ろうそくとあだ名がつく程度やせ形の人であったので、

        遠目には、目立たなかったようです。

        そしてだれにも悟られることなく、月日が経過していったのです。



        【  明日に続く。 】