第1134回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1133話  加藤 友三郎 内閣総理大臣の死去の事、 2015年3月31日 火曜日の投稿です。








    1923年 大正12年の8月24日、 子細などは一切ふれず、内閣総理大臣 加藤 友三郎

   海軍大将が死去したと新聞記者に発表があり、おおくの日本国民が知ることになったのです。




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   その死因など、どういうわけか海軍省から一切公表されず、 それが為、いろんな噂に発展して

  行ったのです。

  シベリア撤退反対派の陸軍の一派に暗殺されたとか、 軍縮で解雇された労働者に暗殺されたとか

  そういう噂が広がっていったのです。

  後年、 いろんな人の証言で、 加藤 友三郎 海軍大将の死因が公表されなかったのは、ご本人の

  考えであったそうで、 海軍省の番頭が病気で動けなくなったと知ると、陸軍の不満分子や、

  それに協力的なシベリア撤退反対派の財閥などの動きを常に気にされていたようです。

  随分、お酒が好きな人であったので、 朝と昼を食事して、忙しい時は昼は食べず、 夜は、

 少々のつまみのおかずと、酒だけであったそうで、昭和の初期には肝硬変であったとか、近年の

 研究では、その症状から ガンであったとか、推測されていますが、亡くなった日も当時伏せられ

 政治の根回しが優先されたようです。


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         山本権兵衛さんが、腹心の番頭格の 加藤 友三郎 内閣総理大臣の死去を受けて

        根回しした人事というのは、 外務大臣 内田 康哉 【 うちだ こうや】 さんを、

        内閣総理大臣 臨時代理に推薦し、 理由が、 外務省の事務次官経験者で、

        官僚であり、 対外的な外国との交渉事に長けていたことをあげ、 また、内田

        外務大臣は、 山本権兵衛さんと親しい間柄であったのです。


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                          【  内田 康哉  外務大臣 】



         当時陸軍では、 その後の統制派と呼ばれていくことになる、田中 義一 陸軍大将の

         長州閥の一派は、 海軍の山本権兵衛さんと与党 政友会の政治家と協調して

         政治を進めていこうと画策し、 陸軍の 薩摩閥、 のちの 皇道派と呼ばれることになる

         上原 勇作 陸軍元帥の一派は、 野党 憲政会の 三菱財閥の経営者 加藤 高明

         議員等の政治家と財閥とつるんで、政権を獲得しようと動き出したのです。




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          山本 権兵衛 海軍大将らの 海軍の本省派の面々は、これらの動きをどう押さえて、

          帝国議会を動かして政治を進めていくか、決断を迫られていくのです。

          外務省の役人である、内田 外務大臣を担いで、 政治をしていった場合、陸軍を

          押さえて、コントロールしていけるのか、 天皇統帥権を主張し、 政治家の指示に

          従わず、暴走する陸軍の軍人をどうコントロールしていくのか、 当時、だれも

          陸軍の軍人の暴力を恐れて、自信が持てなかったというのが本当のところでした。

          下手を打つと、原 敬 元内閣総理大臣のように暗殺される恐れがあったからです。


        【明日に続く。】