第1161回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1160話 関東大震災 第2次山本権兵衛内閣の組閣の事。 2015年4月28日火曜日の投稿です。






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      1923年 大正12年の9月2日 日曜日、 関東大震災の翌日の15時に開かれた

      臨時閣議は、野外で行われたのです。

      明治の政府が出来て、野外で閣議など始まって以来の珍事だったのですが、出席者も

      お互いの顔を見て驚くというか、 そう言う顔ぶれでありました。

       摂政 東宮裕仁殿下【 後の昭和天皇】の信任が厚い、 しんけんさん こと、 大久保

       利通公の次男の 牧野 伸顕 宮内大臣は留任。



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       内閣総理大臣 山本権兵衛 海軍大将の 娘婿の 財部 彪 海軍大臣は留任。

       驚いたことに、 心臓を悪くして政界から遠ざかっていた、陸軍の後に統制派となる



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       長州閥の有力者の 田中 義一 陸軍大将を 陸軍大臣にというか、 当時内閣総理

       大臣に陸軍大臣の決定権はなかったのですが、陸軍省にはかることなく、決めてしまい

      

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           大蔵大臣には、 日銀の出身者の 井上 準之助氏を 指名して、



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           そして、 さらにみんなを驚かせたのが、 当時野党の党首であった、革新倶楽部

           の党首の 犬養 毅 衆議院議員を、 逓信大臣に指名し、 文部大臣予定者が

           連絡がつかないと言う事で、 文部大臣も兼務させるという異例の組閣でありました。  



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          そして、 現在の官房長官にあたる、 当時の内務大臣には 後藤新平氏を据えて

          第2次 山本権兵衛内閣はスタートすることになったのです。




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                      【  震災翌日の 閣議の古写真 】


          ところで、 当時 羽田から品川、浜松町、築地、銀座、 日本橋 と猛火に

          包まれ、 秋葉原、 上野へと 火の手が進んでいるのがわかっていたのですが、

          関東周辺の県の事は電信が破壊され、全くわからない状態であったのです。



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           そこで、 臨時震災救護事務局なる組織を立ち上げ、 その局長には、

           後藤 新平 内務大臣が就任し、 とりあえず現場の収拾にあたることになったのです。

           このような形で、 第2次山本権兵衛内閣がスタートすることになったのですが、

           肝心な陸軍省とは、地震の影響で他の地域の連隊と連絡がつかず、

           近衛連隊は、 宮城内の建物倒壊の片付けや、 警備に当たり、陸軍の中も

           地震当日、 そしてその翌日は大きく混乱していたようです。



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         横須賀のように、 すぐ軍隊が展開して救助活動や、食糧統制に乗り出す事も

         なかったようで、火災も燃えるに任せる状態で、 東京はその日の夜も

        どんどん火災が広がっていき、 多くの人が焼け死んでいくことになるのです。



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          故 加藤 友三郎 内閣総理大臣が 存命中なら、別の思い切った事をどんどん

          手を打っていったのでしょうが、 亡くなられて、 内閣総理大臣 不在の中、

          発生した 関東大震災という 神奈川県を中心とした 巨大地震は、帝都 東京府

          に、甚大な被害をもたらしたのです。


          【  明日に続く。 】