第1161回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
1923年 大正12年の9月2日 日曜日、 関東大震災の翌日の15時に開かれた
臨時閣議は、野外で行われたのです。
明治の政府が出来て、野外で閣議など始まって以来の珍事だったのですが、出席者も
お互いの顔を見て驚くというか、 そう言う顔ぶれでありました。
利通公の次男の 牧野 伸顕 宮内大臣は留任。
驚いたことに、 心臓を悪くして政界から遠ざかっていた、陸軍の後に統制派となる
大蔵大臣には、 日銀の出身者の 井上 準之助氏を 指名して、
そして、 さらにみんなを驚かせたのが、 当時野党の党首であった、革新倶楽部
連絡がつかないと言う事で、 文部大臣も兼務させるという異例の組閣でありました。
第2次 山本権兵衛内閣はスタートすることになったのです。
【 震災翌日の 閣議の古写真 】
ところで、 当時 羽田から品川、浜松町、築地、銀座、 日本橋 と猛火に
包まれ、 秋葉原、 上野へと 火の手が進んでいるのがわかっていたのですが、
関東周辺の県の事は電信が破壊され、全くわからない状態であったのです。
そこで、 臨時震災救護事務局なる組織を立ち上げ、 その局長には、
後藤 新平 内務大臣が就任し、 とりあえず現場の収拾にあたることになったのです。
このような形で、 第2次山本権兵衛内閣がスタートすることになったのですが、
近衛連隊は、 宮城内の建物倒壊の片付けや、 警備に当たり、陸軍の中も
地震当日、 そしてその翌日は大きく混乱していたようです。
横須賀のように、 すぐ軍隊が展開して救助活動や、食糧統制に乗り出す事も
なかったようで、火災も燃えるに任せる状態で、 東京はその日の夜も
どんどん火災が広がっていき、 多くの人が焼け死んでいくことになるのです。
故 加藤 友三郎 内閣総理大臣が 存命中なら、別の思い切った事をどんどん
手を打っていったのでしょうが、 亡くなられて、 内閣総理大臣 不在の中、
に、甚大な被害をもたらしたのです。
【 明日に続く。 】