第1176回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1175話 関東大震災 横須賀市の李 成元 氏の事。 2015年5月13日 水曜日の投稿です。







           大正12年9月3日の 関東大震災から3日後の夕刻、 2人の朝鮮人


          横須賀鎮守府の門前を、草鹿 海軍大尉を訪ねて来たのです。




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          会って、顔を見て すぐ思い出したのですが、 前の前任の長官のお使いで時々

         朝鮮人参を買い求めていたのですが、 そこの漢方薬屋の李 成元 という人で

         あったのです。

         もう一人後にいる人は面識がなく、 金さんと言う 李さんの知り合いらしい。


          「  朝鮮人参屋さん、 生きていたのですか。」 と、問うと、李さんは、 「家財は商品

          共々灰になってしまいました。」と言う、 李さんが、 「副官、 顔は火傷をされている

          ようですがーー。」と問うので、 草鹿参謀が、 「 実は 1日の日に 大滝町で火に

          囲まれまして、危うく命を落とすところでありました、軍服は焼け焦げる、まひげは

         焼けてチリチリとなり、顔はヒリヒリするし、 その後風呂にも入らず、ずっと地震

         救援活動で、軍服も焼けて穴が開いて、汚れたままのこの姿、 ところでどうされ

         ましたか。」 と 草鹿参謀が問うと、


           「 副官殿、 実はこちらの金さんを、東京に向かう海軍の船に乗船させて

             いただけないでしょうか。」 と言う。

            金 さんと言う人は、日本語が片言しか話せないようで、「  コノジシンデ

            トウキョウノ ムスコ サガシニイク。」 と、たどたどしい言葉で言うので、


            草鹿参謀は、 大きな声で 「 絶対 許可を出しません、 いけません、 

            今、 東京などに行ったら、生きて戻れないでしょう。」 とぴしゃっと 断ったのです。




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         話の内容とは、おおむねこんな事であったのです。 金さんの息子が横須賀から東京に

         行って、関東大震災となり、連絡が付かず、親として心配なので息子を探しに行きたい

         という、 問題は、住所も場所もわからず、東京と言う事しか手がかりがないという。




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           当時東京の火災は 未だ鎮火せず、紅の炎が夜空に広がっていたのです。


           そこで、 横浜の 自警団と朝鮮人の騒動や、 長井村の朝鮮人騒動などを

            説明して、東京は火の海になっていて、 自警団が朝鮮人狩りをしている

           らしい話を2人に言って聞かせたのです。


           大火の中の東京市街に入り、 住所や、手かがりがないまま、息子を捜すなど

           その先、自警団に捕かまって、 殺される可能性が非常に高いとお話ししたのです。


           すると、漢方薬屋の  李 さんが、  「 副官殿 私も大日本帝国の国民です。

            先ほどの横浜の暴動の話を聞き、 なにか役に立つことがあったら手伝わせて

            ください。」  と言う、  金 さんも、  「 ソウイウコト ナラ ワタシモ ナニカ スル。」

            と、2人が言うので、 翌日 2人を小林先任参謀に紹介して、 前任の司令長官の

            取引先と言う事で、 李 成元 氏を 横須賀の朝鮮人受け入れの世話役 兼

             通訳とし、 金 さんを その補佐役と言う事にして、 金さんの息子さんはいずれ

            東京からいろんな人が避難して来るであろうから、 その時に哨戒艇の艇長の

             同期の 木村大尉に名前だけ聞いて頼んでおくことにしたのです。



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          横須賀鎮守府では、 朝鮮人 中国人受け入れの責任者として、先任参謀の

          小林 省三郎 海軍中佐を長として、 その補佐に当時、 海軍砲術学校に

          片言の 朝鮮語がしゃべれる 渥美 亀太郎 海軍少佐 【 海兵36期卒】がいて

          実務の対応を 渥美少佐が統帥し、 その補佐に 李 成元さんと金 さんが、

          広報活動や、 色々手伝うことになっていったのです。



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          そして、横浜市朝鮮人の人や中国人の人を一旦、 鈴木商店の 華山丸に

          乗船させ、 少しずつ 横須賀の陸軍砲兵第1連隊の倉庫の敷地に保護して

          いくことになっていったのです。

          このような経緯で、 横須賀に逃げてくることになった、朝鮮人の人も、日本人から

          色々説明を受けるよりも、 同じ朝鮮人の 李 成元さんから、 野間口長官の考えを

          説明して、 広報してもらい、 それを聞いた朝鮮人の人も、治安の良い 横須賀に

          避難する事をためらわずに 安心して移動してくれたのでした。








                            【  作者より 】

           今日紹介した2名のお話は実際あった事実で、 お名前もそのまま紹介しました。

           草鹿 龍之介 海軍中将のお話では、 大正12年当時、横須賀市漢方薬

           商売していた 李 成元 氏 と 友人の金 氏 が 自ら志願され、 横須賀に

           避難されてくる朝鮮人の人達の世話や、 横浜に停泊する崋山丸に出向いて、 

           横須賀鎮守府の告示を 通訳して 被災者に伝えたりと、無報酬で なにも見返

           りは求めず、立派な仕事をされたと、 お話がありました。

           今日、考えて見て、なかなか自分のことばかり考える人が多い中、模範とすべき

            心がけの人と感じました。  


          【 明日に続く。】