第1181回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1180回 関東大震災 聯合艦隊の事。    2015年5月18日 月曜日の投稿です。










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    関東大震災が発生した、1923年 大正12年の9月1日に、日本海軍の聯合艦隊

  何をしていたのかーーーー。

 

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      【関東大震災当時の聯合艦隊司令長官 竹下 勇 海軍大将  海兵15期 海大1期卒】



       当時の聯合艦隊の司令長官であった 竹下 勇 海軍中将が大正12年8月3日付で

       海軍大将に進級され、 盆休みあけから 朝鮮半島遼東半島沖に聯合艦隊を集結して

       9月1日当時、 第1艦隊を率いていた、 竹下司令長官と、 第2艦隊を率いていた

       加藤 司令長官が合同演習を行っていたのです。

      遼東半島というのは、日露戦争で激戦があった、旅順要塞がある近くです。



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       日本本土からの電信の電波で、「 東京、横浜 巨大地震、被害甚大。」という電波や、

       横須賀鎮守府からの、 「 横須賀 津波で被害甚大 救援を請う。」との電波を受信し、 

       翌日の9月2日の15時頃、演習を中止して、旗艦 長門で 聯合艦隊の会議が

       行われたのです。



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           どうして、1日程度遅れたかというと、 救援の電波を受信し、海軍省に電波を

           発信したのですが、 返信がまったく無かったのです。

           その席で、 演習をこのまま続行し、正式な命令を待つか、 正式の命令がないまま

           独断で演習を中止し、 横須賀にとって返すか、 もし、誤報の間違いであった場合

           どうするのか----、と、 いろんな意見が出されたようです。





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         【 第2艦隊 司令長官  加藤 寛治 海軍中将  海兵18期 卒 後の海軍大臣



        当時、艦隊派の重鎮であった、 加藤 寛治 海軍中将は、異変は明らか、急ぎ

        佐世保、 呉、 鹿児島 などに救援物資を急いで発注し、 聯合艦隊は 分散して

        各港に帰港し、 急いで燃料を補給し、 その間に 救援物資を積み込んで、 艦隊を

        組まずに、 足の速い艦艇を先行させて、 横須賀に急ぐべきだと 意見具申されたのです。




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        つまり、 日本の港について、米や味噌、医薬品を集めていては、時間がかかるので、

        電信で 指示を出してすぐ物資を港に集めておいて、 朝鮮半島からとって返して、

        燃料の補給中に、 時間を無駄にせずに 支援物資を積み込んでしまおうというわけです。 




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        当時、集合していた 聯合艦隊の幕僚は、 加藤 寛治 第2艦隊司令長官の

        意見に賛同し、 艦隊を組むことなく、準備が出来た艦艇から、バラバラに

        日本に全速力で帰国することになったのです。



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            通常 艦艇の速度というのは、 経済速度というのがあって、15ノット前後で

            外洋を移動するのですが、9月2日 夕方から、 駆逐艦は30ノット前後、

            戦艦 長門、 陸奥、 伊勢、 日向 など、最大戦速で日本に進路を向けたのです。



           【 明日に続く。】