第1181回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
何をしていたのかーーーー。
当時の聯合艦隊の司令長官であった 竹下 勇 海軍中将が大正12年8月3日付で
9月1日当時、 第1艦隊を率いていた、 竹下司令長官と、 第2艦隊を率いていた
加藤 司令長官が合同演習を行っていたのです。
日本本土からの電信の電波で、「 東京、横浜 巨大地震、被害甚大。」という電波や、
行われたのです。
どうして、1日程度遅れたかというと、 救援の電波を受信し、海軍省に電波を
発信したのですが、 返信がまったく無かったのです。
その席で、 演習をこのまま続行し、正式な命令を待つか、 正式の命令がないまま
独断で演習を中止し、 横須賀にとって返すか、 もし、誤報の間違いであった場合
どうするのか----、と、 いろんな意見が出されたようです。
【 第2艦隊 司令長官 加藤 寛治 海軍中将 海兵18期 卒 後の海軍大臣】
当時、艦隊派の重鎮であった、 加藤 寛治 海軍中将は、異変は明らか、急ぎ
各港に帰港し、 急いで燃料を補給し、 その間に 救援物資を積み込んで、 艦隊を
組まずに、 足の速い艦艇を先行させて、 横須賀に急ぐべきだと 意見具申されたのです。
つまり、 日本の港について、米や味噌、医薬品を集めていては、時間がかかるので、
電信で 指示を出してすぐ物資を港に集めておいて、 朝鮮半島からとって返して、
燃料の補給中に、 時間を無駄にせずに 支援物資を積み込んでしまおうというわけです。
意見に賛同し、 艦隊を組むことなく、準備が出来た艦艇から、バラバラに
日本に全速力で帰国することになったのです。
通常 艦艇の速度というのは、 経済速度というのがあって、15ノット前後で
外洋を移動するのですが、9月2日 夕方から、 駆逐艦は30ノット前後、
【 明日に続く。】