第1182回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
1923年の大正12年9月4日夕刻、最大戦速 25ノットで 太平洋を東上していた
「 参謀長、 このまま速力を維持して、横須賀には いつ頃の到着の予定か。」と問うと
「 長官、 このまま、機関の故障がなければ、おおむね5日の1500時には
横須賀に入れます。」 と言うと、 「 明日 到着後、すみやかに陸揚げの
計画を立案して、 他の艦艇の 行動計画を作れ、おそらく 横浜、東京の品川
あたりにも艦隊の艦艇を展開することになろう。」 と、命令を発令したのです。
「 5時の方向水平線、 艦影見ュ。」 「 艦種知らせ。」 「 戦艦 3隻。」
紀伊半島沖合で、 第1戦隊の戦艦部隊は、支援物資を搭載し、随時合流し、
目指したのです。
9月5日早朝から、ぞくぞくと、大阪、 名古屋、呉、広島、神戸から 支援物資を搭載した
艦艇が横須賀沖に姿を現したのです。
特別救助隊が乗艦した 戦艦 扶桑 【 ふそう 】 は、横須賀を通りすぎて、
横浜沖に向かったのです。
後日、乗艦した生徒から聞いた話では、 横浜に上陸して、瓦礫の撤去の手伝いを
行ったそうです。
到着した艦隊は、 飯田 延太郎 海軍少将 【 海兵24期卒】 が司令を務める
第2水雷戦隊の 北上、 野風 波風 沼風、の第1駆逐隊 続いて、 汐風、
夕風、 太刀風、 帆風 の第2駆逐隊でした。
飯田海軍少将は、 日露の日本海海戦当時から 酒豪として知られた人で、
飲み太郎 という あだ名が付いていたほど、日本酒に強い人でした。
飯田 海軍少将が 関西方面で 災害物資を積み込む時、 その地方の
河北新聞なる 新聞を読み、 横須賀鎮守府の仮設司令部に持参したのです。
横須賀鎮守府の参謀長 宇佐川 知義 海軍少将を見つけて、「 貴様、
生きておったか、 心配したぞ、 この河北新聞を見てみぃ。」 と後輩の
宇佐川参謀長手渡され、それが、震災後初めて見た 新聞であったのです。
【 明日に続く。 】