第1184回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1183話 関東大震災の館山沖の海底隆起の事。 2015年5月21日木曜日の投稿です。
日本海軍の 恒久的な陸上の航空基地は、 1番初めに横須賀に作られ、その後、
金子 要三 海軍少将の提案で作られたのが、以前紹介した、霞ヶ浦 海軍航空隊
でした。
昭和に入って、自分や、淵田美津雄氏などが配属になり、 飛行機の操縦などの
訓練を受けたのもここの航空隊でありました。
自分は、そういうわけで、 訓練生時代と、 飛行教官時代に、この基地でお世話になり、
この紙面で紹介している、 小林 省三郎 海軍大佐が司令をされていた時、 五一五
事件が発生し、 大変な経験をすることになるのですが、ずいぶん親しみのある土地です。
横須賀の海軍航空隊は、 甚大な被害を被り、活動が出来なくなったのです。
震災当時の霞ヶ浦航空隊の司令は、 田尻 唯二 海軍少将で、 震災当日は、
随分混乱したようですが、 翌日の2日の日曜日になって、 独自に偵察機を飛ばして
東京湾一帯を偵察していたようです。
自分は、 この大正12年9月2日の霞ヶ浦海軍航空隊の偵察飛行が、日本で初めて
の災害の偵察活動ではと思っていたのですが、 実は後日研究して見ると、大正時代
初期に、 羽田や品川が台風で高潮被害を受けたときに、 偵察飛行をしているようで、
初めての災害飛行偵察ではないようです。
2時間程度、写真撮影したようです。
これらの空からの撮影された写真が現像され、 翌日にでも横須賀鎮守府や、
海軍省に持ち込まれていたら、 幕僚の分析を経て、偵察の災害情報が生かさ
れたのではと考えるのですが、 当時は この写真がすぐには生かされなかった
のです。
昭和になって飛行教官になって聞いたお話ですが、 当時 たまたま 偵察員の
空中撮影訓練を行っていたそうで、地震当日の片付けを行って、翌日、訓練を再開し、
それの実習を兼ねた偵察であったのです。
打ち寄せて、横須賀海軍航空隊が、滑走路が使えなくなっているとか、約80キロも
離れた場所にあって 離陸前は想像もしていなかったようです。
そして、2時間程度して、パイロットが帰ってきて、報告を聞いて、
大惨事に初めて気づいて、 撮影した画像写真を現像して、分析することと
なったのですが、 この情報が、 持っていく場所が 海軍省は連絡が付かず
陸上の交通は麻痺し、 横須賀鎮守府も、当初連絡が不通と、 このような
事情で 数日後、 航空機による偵察情報が、 横須賀鎮守府 先任参謀の
小林 省三郎 海軍中佐の元にもたらされることになり、 聯合艦隊幕僚との
打ち合わせに使用されることになっていったのです。
実は、驚いたことに、空中からの偵察写真と、 震災前の地図を比較分析したところ、
千葉県の館山湾の 沖合いの海上に鷹ノ島 という 島があるのですが、 海軍が
調査したところ、 海底が随分長い距離、海の底が水上に浮き上がり 場所によっては
陸地や浅瀬程度に海底が持ち上がっていたのです。
しれません。
横須賀鎮守府の先任参謀であった、小林海軍中佐は当時、これらの資料や、
陸上からの被害の偵察報告を総合して、 神奈川県藤沢村付近と、 静岡県
仮説を立てられ、 数日後の聯合艦隊幕僚との打ち合わせに臨まれたようです。
よって引き起こされたのではないかと、 当時推測したわけです。
【 館山航空基地建設に尽力された 及川古志郎 海軍大臣 】
その後、 数年経ってからですが、 及川 海軍大佐が海軍省勤務の時、 この
館山湾と 鷹ノ島との間に隆起した 浅瀬と陸地を、 海軍の事業として当時館山に
赤山という山があって、ここを掘削して残土を出して運搬し、 浅瀬を埋め立てて
陸地を作り、 海軍が 滑走路などを整備して4番目の館山海軍航空基地を建設する
事を主導されていったのです。
【 日本海軍 館山航空隊 】
この飛行場は 海軍の航空隊の錬成に大きく貢献していくことになっていくのですが、
また、順番に読者に紹介していくことにします。
【 作者より 】
今日お話しした昔話は創作ではなく、 当時の事実で、92年の時を経て
多くの人が忘れ去っている故事です。
隆起して、その上に盛土をして埋め立てで出来ていることがわかります。
この先、同じような事が発生した場合、 その先どうなるかというと、地割れが
地震の後、すぐ空中に飛び上がって 空に避難出来ればよいですが、
あるようです。
【 明日に続く。】