第1178回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1177話 関東大震災と皇室の事。 2015年5月24日 日曜日の投稿です。
現在帝都がどのような状態になっているのかというのが 情報不足でよくわからず、 横須賀に
到着後、どのような被災者支援活動をしたらよいか、 また、 それぞれの艦艇をどのように
配置して活動するかと言う事が問題となったのです。
つまり、被災地に到着して、 どういたしましょうかというのでは、聯合艦隊の参謀は
勤まらないわけです。
「 右前方 1時方向、 島影見ュ、 左前方 10時方向 陸地見ュ。」
と見張り台から、 報告があると、 長門の艦橋では艦長の高橋 節雄
海軍大佐が、 双眼鏡を手に前方を眺めたのです。
見えてまいりました。 あともう少しで大島です。」 と言うと、竹下長官は
「陛下は葉山御用邸あたりで静養中とか、 大丈夫であろうか。」 と心配され
たのですが、長門には 当時なにも連絡がなかったのです。
【 関東大震災で被災した皇居 】
当時、関東大震災で日本の皇室がどうなっていたかというと、 まず宮城 【きゅうじょう
幸いご無事であったのですが、 牧野 宮内大臣の判断で、 南側市街地の大火災が
宮城に延焼する可能性があるとして、近衛第1連隊の兵士に警護されて 赤坂の御用邸
に避難されたのです。
ありました。
これまた、お怪我はなかったようです。
と呼ばれていた事がありますが、 太平洋戦争で空襲によって被害甚大となり、
その後、放棄され、現在はありません。
その下敷きとなり、 救助されたのですがお亡くなりになったのです。
また、鎌倉の別邸ですごされていた 山階宮武彦王の妃の佐紀子女王20才は
妊娠中で これまた、建物が倒壊して下敷きとなり、お亡くなりになり。
閑院宮寛子女王 17才は 小田原の別邸で建物が倒壊してお亡くなりになったのです。
皇族も 地震がひどかった神奈川県に 偶然滞在されていた皇族が建物崩壊に巻き込
まれてお亡くなりになったのです。
東京府では、政府の対応が遅かったので、暴動を抑える陸軍の兵士の姿は
あったものの、 食べ物はなく、 着る物はボロボロ、 病院もなく、多くの人が
困り果て、 助けを求めていたようです。
人々は、比較的火災の少なかった、 新宿、渋谷方面に避難しようと押し寄せ、次々
と事件が起こっていったようです。
【明日に続く。】