第1180回  昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1179話  関東大震災 聯合艦隊幕僚会議の事。  2015年5月26日火曜日の投稿です。







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       1923年 大正12年9月1日 遼東半島沖の黄海で、 第1艦隊、第2艦隊と紅白に

       別れて 演習を行っていた、 聯合艦隊 司令長官 竹下 勇 海軍大将は、

       日本の内地からの 「 帝都 地震 津波で被害甚大なり、救援を求ム。」と言う

       電信を受けて、翌 9月2日 押っ取り刀で、全艦バラバラに全速力で横須賀をめざした

       のです。



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         地震から5日後の1400時頃 聯合艦隊 旗艦  長門 【ながと】が到着したものの

         陸奥や、 比叡、山城 金剛などの第2艦隊は、 紀伊半島沖をまだ航行中でありました。



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          その日の夕方、 長門の 聯合艦隊司令部の作戦室で、今後の対応が急いで

          協議されることになり、 横須賀鎮守府を代表して、 参謀長の宇佐川 知義海軍少将

          と、先任参謀の 小林 省三郎海軍中佐が長門に乗り込まれたのです。


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             【 関東大震災の時、聯合艦隊司令長官であった 竹下 勇 海軍大将 】



        冒頭 聯合艦隊司令長官 竹下 勇 海軍大将から 訓示があり、 「 本来で

        あれば、第2艦隊の 加藤 寛治 海軍中将などが 到着してから行うべきであるが

        既に、大地震、 大津波が発生して 5日経過して、夜になろうとしておる。

        事は 急を要す、 各員 すみやかに行動されたい。」 と、挨拶があり、

        


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           【  関東大震災当時 聯合艦隊 参謀長であった 白根 熊三 海軍少将 】



       当日の議事進行は、 聯合艦隊 参謀長 白根 熊三 海軍少将によって行われたのです。

      「 それでは、 横須賀鎮守府より、 9月1日に発生した 巨大地震などの顛末を報告して

       もらう。」 と言うと、  横須賀鎮守府の先任参謀の 小林 省三郎 海軍中佐が

       中央に進み出て、 9月1日に発生した事を 要約して説明に入られたのです。


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       【関東大震災 発生時 横須賀鎮守府の先任参謀であった 小林省三郎 海軍中佐】
      
         


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         小林先任参謀は、横須賀を中心とした海図を広げると、 「まず、9月1日


         正午前、 複数の震源とする巨大地震が連動しておき、 千葉県房総半島の

         館山沖で、海面の色が変化し、 海底が地上に隆起して押し上がり、 巨大な

         津波となって 横須賀、 横浜、 品川など、 東京湾に広がり、海岸では



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           電信柱より 高い 高波が海岸に複数回押し寄せ、 多くの船や市街地を破壊し、

           行方不明者を出したのでありますが、 数万人規模と思われ、 集計は困難を

           極めております。



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           続いて 相模湾の海底のどこかが隆起したと想像され、その影響で、伊豆、大島、

           三浦半島一帯に これも 電信柱より高い高波が打ち寄せ、 鎌倉では、鶴ヶ岡

          八幡宮の下あたりまで、津波が複数回打ち寄せ、 目撃証言では、由比の浜では、

          約300名が一瞬に津波に呑まれて、 行方不明になっております。



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          また、伊豆半島や 小田原市も同様な被害に遭い、 相模湾全域は津波によって

          多数の行方不明者を出しております。」




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         と、 まずは 津波の被害状況を報告すると、聯合艦隊の幕僚から どよめきが


         おこったのでした。


         と言うのが、 佐官 尉官 下士官 水兵と、 第1艦隊では、横須賀、 三浦半島

         鎌倉 藤沢界隈に、家や家族が住んでいる人が多かったのです。


        【 明日に続く。】