第1180回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
別れて 演習を行っていた、 聯合艦隊 司令長官 竹下 勇 海軍大将は、
電信を受けて、翌 9月2日 押っ取り刀で、全艦バラバラに全速力で横須賀をめざした
のです。
協議されることになり、 横須賀鎮守府を代表して、 参謀長の宇佐川 知義海軍少将
と、先任参謀の 小林 省三郎海軍中佐が長門に乗り込まれたのです。
冒頭 聯合艦隊司令長官 竹下 勇 海軍大将から 訓示があり、 「 本来で
あれば、第2艦隊の 加藤 寛治 海軍中将などが 到着してから行うべきであるが
事は 急を要す、 各員 すみやかに行動されたい。」 と、挨拶があり、
当日の議事進行は、 聯合艦隊 参謀長 白根 熊三 海軍少将によって行われたのです。
もらう。」 と言うと、 横須賀鎮守府の先任参謀の 小林 省三郎 海軍中佐が
中央に進み出て、 9月1日に発生した事を 要約して説明に入られたのです。
小林先任参謀は、横須賀を中心とした海図を広げると、 「まず、9月1日
館山沖で、海面の色が変化し、 海底が地上に隆起して押し上がり、 巨大な
電信柱より 高い 高波が海岸に複数回押し寄せ、 多くの船や市街地を破壊し、
行方不明者を出したのでありますが、 数万人規模と思われ、 集計は困難を
極めております。
続いて 相模湾の海底のどこかが隆起したと想像され、その影響で、伊豆、大島、
三浦半島一帯に これも 電信柱より高い高波が打ち寄せ、 鎌倉では、鶴ヶ岡
約300名が一瞬に津波に呑まれて、 行方不明になっております。
多数の行方不明者を出しております。」
おこったのでした。
鎌倉 藤沢界隈に、家や家族が住んでいる人が多かったのです。
【 明日に続く。】