第1184回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1183話 関東大震災の第2艦隊の事。     2015年5月30日 土曜日の投稿です。






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日本の聯合艦隊というのは、関東大震災の当時、 第1艦隊と、第2艦隊の連合体

で、シベリア出兵の時は、臨時に第3艦隊というのが編成されていたのですが、

震災の時は、 第1艦隊の司令長官は 竹下 勇 海軍大将で、 幕僚も聯合艦隊

の司令部と兼任であったのです。

当時の 第2艦隊の主な艦船兵力は次の如しで、 戦艦 金剛 比叡 霧島などを

主軸とした、 戦艦部隊に、 第5戦隊の巡洋艦部隊と、第2水雷戦隊が護衛する

という強力な艦隊でありました。




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 遠州灘を高速で東上する 第2艦隊の当時の旗艦は 戦艦 金剛【こんごう】

 でありました。

この 戦艦 金剛に第2艦隊司令部が乗艦し、 関東大震災当時の第2艦隊司令長官

は、 加藤 寛治  海軍中将であったのです。



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【  関東大震災 当時  第2艦隊司令長官であった 加藤 寛治 海軍中将  】



加藤 寛治 海軍中将は、 福井県 福井市の出身で、聯合艦隊司令長官の竹下

海軍大将より、 3期後輩の 海軍兵学校 18期 を首席で卒業した 秀才であり

ました。

加藤海軍中将は、 山本権兵衛 内閣総理大臣や、財部 彪 海軍大臣らの、

本省派と呼ばれる 人達とは反目する、 艦隊派の重鎮ながら、 自分ご自身の

意見は、はっきりずげずげ 大声で発言されるのですが、 会議で一旦方針が

決定されると決定事項がご自身の言う事とまったく反対の事でも、 自分の考え

を捨てて、決定事項を自分の考えに置き換えて、 自分を殺して 先頭にたって

動く優れた人でもありました。



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当時の本省派の元締めの山本 権兵衛 海軍大将は、 艦隊派の重鎮で、扱いに

くい煙たい存在の 加藤 寛治 海軍中将でありましたが、 そのような一本気の勤

めぶりにずいぶん感心していたようで、 軍縮で 海軍中将の9割が予備役にされ

ていったのですが、加藤 寛治 海軍中将は例外扱いで、 要職を歴任していった

のです。



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【  関東大震災当時の第2艦隊旗艦 金剛 【こんごう】  艦長 関 干城 海軍大佐 】



  「 長官、 聯合艦隊司令部よりの電信を受信いたしました。」 と 通信参謀が


 加藤 海軍中将の前に進み出ると、 静かに水平線を見つめていた 加藤長官は、

 「 電文を読め。」と、 命令し、 通信参謀が電文を読み上げたのです。


 「  発、 聯合艦隊司令長官 竹下 勇、 宛 第2艦隊司令長官

 電文、  ダイニカンタイハ トウキョウ シバウラカイガンニ テンシンシ、 

カンタイノ ゼンリョクヲアゲテ、 シエンブッシノ ヨウリクヲカイシサレタシ。」 


「 以上であります。」 と 報告があると、 無言のまま水平線を見つめながら



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「 既に、長門は横須賀にいたり、 第2艦隊の投錨位置は、 品川沖、芝浦海岸と

 決定された、 このまま進めば第2艦隊が品川沖に到着するのは6日の午後、

 全速力で 帝都 東京湾に入る、 第5戦速 、 後続艦に発光信号。」 と、





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             太平洋を東に、東にと 全速力で進んでいったのです。


           【 明日に続く。 】