第1209回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1208回 関東大震災 福田 関東戒厳司令官の事。2015年6月24日水曜日の投稿です。





  1923年 大正12年9月18日、 陸軍大臣 田中 義一 陸軍大将は、陸軍次官

の白川 義則 陸軍中将を呼び出して、 橘 宗一 少年の事件の対応を協議したの

です。



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         【  関東大震災当時の陸軍次官 白川 義則 陸軍中将 】


    「  おい、 白川、 我輩の知らぬ所で、憲兵隊や、近衛連隊が暴走し、

     裁判や法律を無視して多くの殺人事件を起こし、警視庁の湯浅警視総監が、

     海軍に直訴に及び、 本日の閣議でえらい目にあったわい、 次の手を

     どうするか、  憲兵隊が昨日引っ張った、大杉とか言う社会主義者の連れ

     ていたのが、アメリカ国籍の子供で、その子供も連れ去ったので、米国大使が

     身柄の引き渡しを求めているらしい。」 と、 切り出すと、 白川 陸軍次官は、

     「 組織の順番から言うと、 関東戒厳司令官の 福田 陸軍大将に事態を

     説明し、対応を協議するのが正攻法と考えます。」と、 返事をすると、

     田中陸軍大臣は、 副官を呼んで、「 福田 雅太郎 陸軍大将をすぐ、

     ここに呼べ、急げ。」 と。命令を発令したのです。



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        【 関東大震災で 陸軍大臣になった  田中 義一 陸軍大将  】



      当時、田中 陸軍大将は、 病気療養から、陸軍省に復帰して、以前紹介した

      日本の三大勢力の 陸軍、海軍、 政治家官僚を ひとつにまとめて、中国

      大陸をまず征服し、 南方資源地帯や インドを征服しようと 計画していた

      矢先、 今回の事件で、 陸軍の看板や、自分の前途に、傷が残らないよう

      どう 終熄させるか、 智恵をめぐらせていたようです。



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     【 関東大震災で、 関東戒厳司令官になった 福田 雅太郎 陸軍大将 】




     しばらくして、 田中 義一 陸軍大臣のもとを訪ねた、 福田 陸軍大将は、

     事件の顛末を聞くと、 しばらく考えて、「 この度の関東大地震の暴動を

     いち早く鎮定するため、 東京警視庁管内の、前科がある者、 社会主義者

     共産主義者、 労働運動家、 朝鮮人独立運動家を 事前に捕縛し、 警察署

     の管理下におくという命令は、 関東戒厳司令官の 自分が発令したことで、

     この度の大火災、 その後の破壊活動、暴動に至り、 1日も早く、これらを

     平静な状態に戻すためには必要な措置であったと、申し立てを行ったのです。

      しかし、反面、 暴動の抑止予防と、 暴動の鎮定の為に、実弾などは配布

      しておらず、 小銃に着剣のみにて 対応することを命令しており、陸軍の

      部隊が一般市民の暴徒に、一斉射撃を加えたりするような事は禁止し、

      陸軍大臣の指摘があった、 亀戸警察署の事件や、淀橋警察署の事件は

     、今、初めて聞き及んだことであります。」 と、弁解したのです。

      そして、 自分の管轄外の部隊の出来事と 強調したのです。



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    ここで読者にわかりやすく紹介すると、   陸軍の内部のお話なのですが

    当時、陸軍の中には、 参謀本部があって、 参謀総長の命令によって、

    日本国内の 各師団司令部に命令が伝達され、 その下の 連隊司令部が

    実務を実行する事になっていたのですが、 宮城を警備守護する 近衛連隊と

    憲兵隊は 別組織であったのです。

     つまり、 福田 雅太郎 陸軍大将が申し立てたのは、 別の命令系統の

     部隊であって、 その行動について、報告はないし、把握していないと言う

     返答であったのです。


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       陸軍の第1師団の配下の連隊や、関東周辺の連隊の部隊は 忠実に

      暴動の抑止と、被災者の救護、 食糧支援 治安の維持に取り組んでおり、

      指摘があった、 亀戸警察署内での 集団処刑事件は、 近衛師団

      千葉県の習志野の近衛騎兵連隊の起こしたことであるし、 淀橋警察署の

      大杉、伊藤、橘少年の事件も、管轄外の 東京憲兵隊の起こしたことで、

      自分の管轄外の部隊で、 問い合わせは、 憲兵隊 司令官 小泉 

      陸軍少将に問い合わせを御願いしたいと、こういう返事であったのです。


      田中、陸軍大臣は、「  関東戒厳司令官がしっかり統帥せんから、

      こんな事がおきるのだと。」 と不機嫌になり、 「 おい、副官、急いで

      小泉 憲兵隊司令官を呼び出せ。」 と、 命令し、 しばらくして、 

  
       小泉陸軍少将に、田中陸軍大臣が、橘 少年の事を問いただすと、



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    【  関東大震災当時 憲兵隊司令官であった 小泉 六一 陸軍少将 】




      事件を知っていて、とぼけたのか、 「 閣下、自分は8月の後半に

     憲兵隊司令官に着任し、9月に入りまして、この大地震と、混乱であります。

     お話があったことを 十分把握しておりませんので、 東京憲兵隊 小山

     憲兵隊長に 問い合わせて、 早急に報告させていただきたいと思います。」

    と、語り、 橘 少年の救出、釈放というボールは、 田中陸軍大臣から

    東京憲兵隊に 投げられたのです。



     【  明日に続く。】