第1244回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1243話 関東大震災陸軍 遷都計画の事。2015年7月28日火曜日の投稿です。





   1923年 大正12年9月22日の土曜日、 地震災害の頻発する首都 東京

  から思い切って、 朝鮮半島京城 【けいじょう 現在のソウル】に遷都する

  べしという、陸軍の 上原 勇作元帥を頂点とする 陸軍参謀本部の遷都

  計画案は、 陸軍省を経由して、 大杉 栄 他2名の殺害事件の顛末と

  一緒に、 当時 内閣総理大臣であった、 山本 権兵衛 海軍大将に報告

  が行われたのです。



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    田中陸軍大臣は、 今村 均 陸軍少佐の 参謀本部での討議の顛末を

 聞くに及び、 自身の持論の中国大陸の征服には、京城は便利の良い場所で

 あることはわかったのですが、反面、陸続きのため、もし大陸での戦闘で、陸軍

がロシアや中国の軍閥に大敗した場合、 一気に首都に敵が侵攻してくる危険性と、 

京城には、多くの朝鮮人が住んでおり、 これらの人を追い払い、日本人が京城

大挙乗り込んだ場合、 大きな確執が発生し、 また、 古から、日本国以外に天皇

が遷都を行った事はなく、 前例もないため、 宮内省を中心に 反対が起こるの

は目に見えてあきらかと考えていたようです。



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    当時、天皇は日本の日の元の天照大神であり、 神が日の元を捨てて

    朝鮮半島に 遷都するなどと言うのは、 日本人には理解が出来なかったの

    です。



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      そして、 当時の政界のキングメーカーの1人、 西園寺 公望 公は、

      上原元帥と、 水と油の関係で、 話を聞いた途端、「 御上が、京城

      遷都するなど、 論外。」 と、 反対の立場を表明し、 その系列の、

      牧野 宮内大臣も、 この考えに同調して、話は否定されていったのです。



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        このような、顛末になる事は、田中陸軍大臣も、 山本 内閣総理大臣

    も 事前に予想していたことであったのですが、 問題は 陸軍で1番難しい

    上原元帥の一派の顔を 潰すことなく、この話をどう処理していくかと言う事が

    田中陸軍大臣と、 山本 権兵衛 内閣総理大臣との間で話し合われた

    のです。


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          【 当時の内閣総理大臣 山本 権兵衛  海軍大将 】


      2人とも、「 やーーーれーーやれ。」と、考え混み、いろんな話をして

      考え出した結論というのは、 上原元帥の 顔を潰さぬように、内閣に

      京城遷都計画の説明する場を近日中にもうけて、 その後、大杉栄事件

      のアメリカ国籍の 橘 宗一君 殺害事件の顛末を合わせて行い、

      当時 外務大臣は不在のまま、内閣総理大臣が兼務していたので、 

      早急に外務大臣を、西園寺 公と調整して、決めて、新しい外務大臣から

      アメリカ大使館に、 訃報を伝達し、 9月24日に行われるであろう、

      甘糟 元憲兵大尉らの 公開の場で行われる軍法会議の予定を

      アメリカ側に伝達することが 決められたのです。




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               【  甘糟 元憲兵大尉等の 軍法会議の様子 】



       田中 陸軍大臣側からすると、 陸軍参謀本部の考えを、内閣への

       説明の場をもうけることで、 その先 どうなろうが、 顔が立つわけで、

       また、合わせて、大杉栄事件の報告会を兼ねることで、 顛末は

       陸軍省が説明するまでもなく、 参謀本部に伝わるので、一石2丁の

       策であったのです。



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          【   当時の陸軍の実力者  上原 勇作 陸軍元帥 】



        そして、 それらの予定は、 白川 陸軍次官から、 陸軍参謀本部

        そして、上原元帥に 伝えられていったのです。


        そして、 山本 権兵衛 内閣総理大臣は、 その説明会の舞台に

        「 陸軍は天皇陛下の軍隊で、内閣の指示は受けない。」と公言し、

        過激な発言や、行動をする上原元帥等の陸軍の右派を 静かに

        させるある 仕掛けを施すのでした。


        【  明日に続く。 】