第1271回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1270回 関東大震災当時の世界情勢の事。2015年8月24日月曜日の投稿です。
【 第1航空戦隊 旗艦 赤城 あかぎ 】
昭和16年 秋、 航空母艦 赤城の 艦橋にある 戦隊作戦室で、
第1航空戦隊 参謀長 草鹿 龍之介 海軍少将 は、 当番兵が持って来た
熱いお茶を飲むと、「 いゃーー、 長話をしてしまった。」 と、照れそうに
みんなの前で語ると、 「 俺は、その後、ずっと 横須賀鎮守府の副官を
していては、 出世が遅れると考えて、 その後、海軍大学を受験してな、
源田参謀ーー、貴様が懇意にしておる、 大西 瀧治郎 と一緒に、海軍
大学の試験を受けに行って、 大西が、 一騒動おこしおって、 まっ
その話は、また後日に取っておこう。」 と、話すと、 「 おい、源田
参謀、 貴様は、 一昨年 イギリス大使館にいたのだろう、 欧州情勢
をみんなに聞かせろ。」 と、 話があり、 自分は、草鹿 海軍少将の
次に、 話を語る事になっていったのです。
【 昭和16年当時の 第1航空戦隊 幕僚 】
昭和16年当時、 戦後の人達は 知る人は少ないのですが、
第1航空戦隊には、 航空参謀が2人いたのです。
1人は、 航空 甲 参謀で、 自分がいて、 もう1人は、 航空 乙参謀
【 こうくうおつさんぼう】 と言って、 その職には、 吉岡 忠一
海軍少佐がいたのです。
【 中央の人物が、 海軍少佐 吉岡 忠一 氏 】
南雲 忠一 海軍中将は、 自分と同じ名前の 吉岡 海軍少佐に
目をかけ、 ミッドウェイ海戦での 航空作戦の根本は、病気で寝込んだ
自分に替わって、 彼が 索敵、攻撃計画を 立案していくことになる
のです。
当時、「 おぃ、 航空参謀。」 と 呼ぶと、 自分か、 吉岡 少佐か
わからないので、 司令部では、「 源田参謀、吉岡参謀。」と、名字で
呼ぶように、自然となって行ったのです。
1923年 大正12年という年は、日本の周辺でも、重要な人物が
世に出て行ったというか、 名乗りを上げていった年でもあるのです。
日本の近代の歴史を語る上で、 どうしても 当時の世界情勢を
話していく必要があります。
となりの中国大陸では、 後に、数千万人の人を 飢餓に追い込んで、
書記になるのです。
毛沢東は、 1923年 国民党の上海組織の管理職から
周到にのし上がって行くのです。
そして、 ソビエトの 当時モスクワ政府と呼んでいたのですが、
と呼ばれる、3派の同盟を結んで、 当時、レーニンの次の実力者
レーニンを裏切って、 トッロッキーに、接近していったのです。
そして、 その後、スターリンは、 トッロッキーを裏切って、
周囲のトッロッキー派の共産党員をみな殺しにしようとするのです。
1923年 大正12年 ドイツの ミューへンという町から、 オーストリー
なのです。
は、 1923年 ヒットラーの演説を、 ミューへンの町で初めて聞き、
「 この人なら、ドイツを統一し、世界征服が出来るに違いない。」と、
確信したそうで、 ドイツの独裁恐怖政治の 原点というか、 スタート
した年でもあったのです。
そして、ヘス 副総統や、 ナチスの幹部が、この年に初めて
ヒットラーという、 演説家に初めて出会い、行動をともにしていく
原点の年でした。
自分は、 第1航空戦隊の幕僚に、ヨーロッパの話をする前に
当時は イタリー と呼んでいたのですが、 戦後の現在のイタリアの
お話から 始めることにしたのです。
あったのです。
【 明日に続く。】