第1272回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1271回 イタリア社会党の事。 2015年8月25日火曜日の投稿です。






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  第1航空戦隊の 草鹿 参謀長が、 自分に「 源田参謀、欧州の情勢を

 みんなに話して聞かせろ。」 と言われたのは、 意味があって、昭和16年当時

 の欧州での戦争の様子を話して聞かせろと言う意味合いで、 すなわち、

 「 制空権のない軍隊は 必ずや滅びる。」 という お話を 話して聞かせろと

 言う意味合いであったのです。



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  この当時、 日本海軍では 大艦巨砲主義というのが主流派で、派閥を作り、

 戦艦大和や武蔵の建造などが行われている最中でありました。

  これらの 戦艦を 航空母艦や、航空機に作り替えていたら、 歴史は少し

  日本海軍に有利に動いていたかも知れません。



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        昭和の初め、ドイツは 大砲のついた戦車の生産をベルサイユ条約

       禁止され、 第2次世界大戦が始まった当時、 戦車には 貧弱な

       機関銃と、機関砲程度しか 登載されていなかったのです。

       そして、 日本の三菱の戦車などと比較すると、 故障が多く、

       部隊が 300キロ程度移動すると、 半数が故障して脱落してしまう

       程度の 戦車であったのです。

      

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     この当時では、日本の戦車の方が、ドイツの戦車より、航続力が長く、

   燃えにくい ディーゼル燃料を用いて、 故障が少なく、優れていたのです。




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   ところが 当時フランス陸軍は、世界一の陸軍大国と呼ばれていて、 

  戦車には強力な 装甲板と 戦車砲が登載され、 ドイツの戦車では太刀打ち

  出来なかったのです。



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    では、 どうしてドイツが勝てたかというと、 効果的に空軍力を使用し、

    ドイツの戦闘機が、 フランスの上空で、制空権を確保できたからでした。

    つまり、 フランスの戦闘機をすべて破壊してしまい、制空権を確保し、

    爆撃機が安心して 飛べる 空を作っていったのです。 




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  ナチスドイツは、 スパイを使って、フランスの空軍の飛行場、 規模、その数

  を調べて把握し、 飛行機が飛び立つ前に、 攻撃し、 壊滅させてしまった

  のです。



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   そして、 急降下爆撃機を 常時 陸上部隊の上空に滞空させて、フランスの

   戦車部隊を 空の上から、 爆弾を投下して破壊して、 その後、 ドイツの

   陸軍部隊が、 攻撃して殲滅するという、戦術に打って出たのです。




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       フランス軍の後方の補給線の道路や、 橋や、鉄道をどんどん爆撃して

       前線に、補給物資が届かないようにしてしまったのです。

       結果、 戦車の燃料がなくなり、 動かなくなり、 大砲があっても、

       弾薬が届かないので、 撃てなくなって行って、 総崩れとなって行った

       のです。



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         昭和15年当時、 これらの航空機の活躍は、日本海軍や、

      日本陸軍に大きな衝撃を与えることになって行ったのです。



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   それと、もうひとつ忘れてはいけないのが、 空挺部隊の創設でありました。

   大きな川が多いヨーロッパでは、 橋が破壊されると、 地上部隊は立ち往生

   してしまうのですが、 ドイツは上空を戦闘機で制空権をいち早く確保すると、



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         ドイツの地上部隊が通過するであろう、その進路に、 空から

       空挺部隊が、落下傘降下し、 橋や、 町を 強襲し、 占拠して

      
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        進撃予定路に、 空挺部隊のジュータンを広げていき、そのジュータン

        を 地上の 機銃しかついていない、 貧弱な戦車や、装甲車で

        素早く進撃して、 途中抵抗する敵を、 ドイツ空軍が空爆して援護

        しながら、 空陸一体の軍事作戦を行って行ったのです。



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         これらは、 当時、塹壕や、 要塞陣地や、 戦車や、 野砲のみで

         戦うことばかり考えていた、世界の陸軍に 衝撃を与えたのです。




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          日本陸軍でも、 古い 陣地撃破を想定した、戦車の運用から

          ドイツ式の 戦車の運用を研究しようという動きもあったのですが、

          我国は、 中国の歩兵中心の、 軍閥との、 とりあえずのその場

          での戦争が優先され、 なかなかドイツのような、空陸一体作戦が

          出来なかったというか、 そこまで 進む事が出来なかったのです。



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         確かに、陸軍の航空隊や、海軍の航空隊も、陸上部隊の支援を

         行っていたのですが、 地上と、 空との連絡がうまく行かず、

         誤爆などがあいついで、 内陸の 敵の飛行場などを 空爆する



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          そういう、 地上部隊と絶えず連携して進撃していくというドイツの

          作戦とは、ほど遠い物であったのです。




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      これらの、新しい戦術を用いて、ヨーロッパで次々連勝していくナチス

      ドイツの ヒットラー総統は、世界から注目され、 そして、あっという間に

      フランスのパリの近くまで進撃していき、 当時のフランス政府は、

      パリで市街戦となると、多くの一般市民が死傷することを恐れて、

      無条件降伏し、 パリは、戦火に焼かれることなく、 残ったのですが、



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                ドイツ軍に 無血占領されてしまったのです。


          

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          当時のドイツは、 飛ぶ勢いでどんどん、ヨーロッパを占領して

          行ったのです。



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          ナチス とはなにかというと、 国家社会主義ドイツ労働者党

          の略文字 NSDAPの略称で、その原点は、戦後の人は知る人は

          少ないのですが、 ファシズム という言葉に多くの影響を受けて

          行ったのです。


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        では、 ファシズムという言葉は、 どのような意味があるのかと言うと、

        訳すと、 結束主義、 一体となって行動する という意味になります。

        これらの行動が、 ドイツで行われたのが、 日本で関東大震災

        発生した 大正12年の出来事でした。


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          そして、 ヒットラーナチスが手本として、模倣していったのが、

        イタリーの ムッソリーニの 国家 ファシスト 党であったのです。

        実は、 この ベニート、 ムッソリーニ氏は、 独裁者と言うより、

        元、小学校の教師で、 日本の平和を叫ぶ 社会党の教員と同じ

        ように、平和を叫ぶ、 イタリー社会党の党員であったのです。


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         そして、 ムッソリーニ先生に、大きな影響を与えたのが、

        ソビエト 共産党の ウラジミール レーニン であったのです。

        スイスに亡命中のレーニンの秘書が、 イタリー社会党の党員で、

        ムッソリーニ先生と 話し合いを持つことになって行ったのです。



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         ムッソリーニ先生は、 黒シャツ部隊という、 決起部隊を組織して、

         ローマに進軍することになるのですが、 ヒットラーは、大きく影響を

         受けて、 自らの護衛部隊 親衛隊を組織して、 同じように黒色の

         制服の部隊を組織していくのです。



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        このような前後関係から、 ヨーロッパの争乱の原点は イタリーの

      それも、 小学校の先生の ムッソリーニ先生から動いていったのです。


       【 明日に続く。】