第1305回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1304話  ファシスト党の多数派工作の事。 2015年9月27日日曜日の投稿です。






  関東大震災の前年の1922年  大正11年の10月のイタリー王国【戦後の

   イタリア】の ファシスト党のミラノの制圧は、 当時のローマのバチカンや、

   イタリー王国  国王に衝撃を与えたのです。



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             【  当時の ルィージ ファクタ イタリー王国 首相 】

       ファクタ首相は、 王宮に出向いて、「 国内各地で 共産党の信者が

       暴動を起こし、 さらに ファシスト党の退役兵士が暴動を起こし、

       もはや、両者を鎮圧するには、 軍事力による 武力討伐しか方法

       がありません。 イタリー王国 全土に 戒厳令をしいて、市民の

       外出を禁止して、 暴動を鎮圧するべきです。」と直訴に及んだの

       です。

       国王は、「汝に尋ねる 軍隊で本当に武力鎮圧が可能なのか、 

       ロシア皇帝のように、一部の市民に発砲したことで、 暴動がさらに

       ひどくなり、 帝国が崩壊したようなことにはならないのか。」と、

       心配そうに問いかけたのです。



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        ロシアの2月革命で、 ロシア皇帝の近衛兵が、デモ行進の市民に

        発砲して、多くの死傷者が出たのですが、 逆に、 国民にこのことが

        知れ渡ると、 ロシア各地で武装蜂起が発生し、 対応出来なくなり、

        そして、 軍人が市民側に回って、皇帝を裏切って、ロシア皇帝

        その後、 一家全員殺されることになったのですが、 イタリー王国

        の国王は、 その前例があるので、 軍隊の投入には非常に当時

        慎重であったのです。


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          【  イタリー王国 の  ヴットリーオ エマヌエール 国王 】


      ファクタ首相は、「  ファシスト党の連中は、所詮、退役した末端の

       兵士の連合体で、武装もナイフや、猟銃や、棍棒で 貧弱です。

       正規軍で 武力討伐すれば、 あっという間でしょう。」と、 こんな

       会話をしていると、 横から、「 国王、 申し上げます。」と

       報告が入り、「  陸軍の ボーノ 元帥の一派が、ファシスト党

       を支持して、 部隊を率いて ムッソリーニ側についたそうです。」

       と報告があると、 国王の顔色が変わって、「 大変な事になった。」

       と 大騒ぎになったのです。



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       翌年、ドイツの ヒットラーは、 ミューンヘンで、 ファシスト党の模倣で

       一揆を起こして、 武力討伐されるのですが、 大きく違っていたのが

       ムッソリーニ先生の場合は、 軍部に根回しをして、 協力、及び

       中立の約束を取り交わしてから行動していたことが 大きな差です。



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       そして、退役軍人会のルートで、その部隊におもむいて、兵士の

       前で演説して、 世の中の矛盾や、持論の経済政策、 共産主義

       密告独裁政治の批判と、ロシア革命の実際の非道な行われ方を語り、

       兵士達の支持を受けていったのです。



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      当時、 徴兵による兵役が終わると、多くの若い兵士の仕事が無い

      不景気な世の中で、失業するのがわかっていたのです。

       ムッソリーニ先生の「 国家による国民の為に有効な税金の使用で、

      国家が公共事業を計画して、公共事業によって 雇用を創出して、 

      地方の道路網を整備して、 物流や産業を振興して、 身分社会を是正

      して、 教育改革を断行しなければならない。」との呼びかけに、多くの

      人が賛同したのです。

      そして、 陸軍の部隊が 世直しをしないといけないと、 全員が

      思う様になっていったのです。      
 


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        数日間で、陸軍部隊の調略が完了すると、 いよいよ ファシスト党

        の党員は、 退役軍人のみでなく、一般人や、軍人も混じって、

        黒い服を着て、 ローマに向かって進み出したのです。



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      当時、ムッソリーニのローマへの進軍と伝えられた、この行為は、末端で

      例外的な衝突があったようですが、 実に統率が取れた デモ行進のような

      もので、 平和的な物であったそうです。

      つまり、 人殺しをしたり、放火をしたり、 物を壊したり、 そういう暴徒

      では無かったのです。


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       そして、 途中の村や、町で、ムッソリーニ先生は、持論を演説して

       市民に対して語りかけ、 それを聞いた人が、 同感と考えるよう

       なっていって、途中から いろんな人が このデモ行進に合流して

       いき、 当初数千人規模であったのが、 数万人規模にふくれ

       上がっていったのです。

       お金をばらまいたわけでなく、 思うことを 両手を使って、間を

       とりながら、オペラを勉強して、 独特の語りかけを行ったようですが、

       みんなが、ムッソリーニ先生の 国政改革を聞いて、「 自分もそう

       思う。」 と感じたようです。


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         みんな、 イタリー王国の旗や、 黒い服を着込んで、 その隊列は

         時間をおうごとに、 どんどん膨張していったのです。

         そして、イタリー王国の 国王は、 決断を迫られていったのです。

         考えたのが、 共産党と、 ファシスト党が手を組んだら、 国内が

         争乱となり、 ドイツ皇帝のように 海外に逃亡しないといけ

         なくなる。

         そういうことは 最悪のシナリオで、 ファシスト党を武力討伐

         しようとすると、 ファシスト党のほうについている陸軍部隊と、

         ローマ国王側の、陸軍部隊と戦争となり、内戦に発展し、さらに

         その混乱に乗じて、 共産革命が起きると、手の施しようがなく

         なると思い至ったようです。



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       国王や、貴族の重臣は、いまだかつて体験したことのない国内の

       争乱に直面し、 時間がどんどん過ぎていき、 結論が出せかなった

       のです。


       【 明日に続く。】