第1831回 ドイツ海軍の古写真を楽しむ。模型公園
みなさん、こんばんは、模型公園です。 2015年10月10日土曜日の投稿です、
毎週土曜日の夜の恒例の模型公園が所有する古写真を
みんなで一緒に楽しむコーナーです。
ここ数週間、 葬式の写真とか、暗いのが続いたのですが
今日からは、 海軍の写真の紹介です。
今週から、少しずつ紹介して行く写真は、ドイツ海軍の写真です。
日本の明治末期までは、 ドイツ海軍というのは、日本以上の水上
打撃戦力を有していて、 イギリスとならぶ世界の巨大艦隊を有して
いたのです。
当時の陸軍が、ドイツの中の3個の王国の連合体であったのに比較すると
海軍は 国王 ヴィルヘルム二世 直轄の海軍でした。
海軍長官は、 アルフレート フォン ティルピッツ と言う人でした。
イギリスと ドイツは 痛み分け程度の大損害を出したのですが、
ドイツは、イギリスに海上封鎖を受けて、戦略物資の輸入が
止まってしまい、 第一次世界大戦の敗北の原因になっていった
のです。
優秀な、工場があっても、 材料が無ければどうすることも出来なく
なっていったのです。
海軍は15000人までの人員と限定され、 1万トン以上の軍艦は
建造は禁止され、潜水艦などは、保有を禁止されたのです。
その制限を 取り払って、 海軍を再建に導いたのが、アドルフ
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ドイツ海軍の由来はその程度として、 この写真は キール軍港あたりで
撮影された、駆逐艦と思われる写真です。
この写真の印象に残るところは、ブリッジの上に、鷲のマークが
取り付けてあります。
日本海軍で言う、菊の御紋 というところでしょうかーー。
それから、艦番号も 日本や、米国より、 すこし後にずれた場所に
描いてあるのがわかります。
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の イ号の半分程度、 それ以下の基準排水量のトン数で、小型でした。
日本海軍の潜水艦の原型は、 以前紹介したのですが、 ドイツ海軍の
Uボートの改良版でありました。
接収して、 コピーを建造したのが 呂号 と呼ばれる 小型潜水艦です。
そのような事情で、日本海軍は ドイツ海軍の影響を大きく受けた
のです。
今週は、 ここで終わりで、次回は 17日の土曜日の21時頃
投稿の予定です。
興味のある人は、 来週の土曜日、またアクセスしてください。
【 来週に続く。】