第1319回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1318話 ヒットラーの母親の病死の事。 2015年10月11日日曜日の投稿です。
アドルフ ヒットラーという人は、 母親に子犬のように甘えるところ
があって、 母親も出来の悪い息子が心配で 心配でたまらなかった
様です。
手紙で、母親がおかしな病気になって様態がよくないと知った
自宅のあるリッツに戻ったようです。
【 当時の アドルフ ヒットラーの自宅と伝わる家 】
ヒットラーが ウィーンから 自宅に戻った日時というのは、研究家に
よってまちまちで、 総合すると、 1907年の秋頃だったようです。
つまり、日本では明治39年頃、日露戦争が終わった頃の事でした。
【 ヒットラーの母親 クララ 】
彼女の症状というのは、乳房に赤黒いコブが出来、 食が細り、
体調不良となり、 乳房に激痛がはしるという症状であったようです。
多くの研究家の話を総合すると、現在の乳がんの末期症状であった
そうです。
ヒットラーは、 母親の病気を治すため、 いろんな病院を訪れた
ようですが、 治らなかったようです。
そして、 当時名医と言われていた、 医師のブロッホ先生の病院に
母親を診察に行かせたようです。
薬品を乳房に注射するという、 医学的根拠の無い治療で、クララは
注射をすると悲鳴を上げ、 だんだん弱っていったようです。
ヒットラーの研究をする研究者の中に、 「後にこの治療が科学的
根拠の無い治療方法であったと知った ヒットラーが、恨みに思い
ユダヤ人を怨んで、 迫害する原因になっていった。」と、申し立てる
人がいるのですが、 大勢の人は、そのような話は否定しているのです。
約7万人を逮捕し、強制収容所に移送して 処刑していくのですが、
彼だけは特別扱いで、親衛隊の管理下で保護し、後に、アメリカに
例外的処置として、出国を許している所などから、 ヒットラーは、
母親を治療した医師を怨んではいなかったとする意見が主流です。
ヒットラーは、 母親が悪くなるまで病院に連れて行かなかったと、
異母姉の 長女のアンゲラにかみついたようで、 2人の間には
溝が出来ていったようです。
ヒットラーが ウィーンから戻った 数ヶ月後の、1907年12月21日
ヒットラーの母親 クララは 息をひきとったそうです。
行年47才だったそうです。
当時の女性の平均年齢というのは、42才だったそうで、当時は
医療水準が低かった事も有り、 多くの人が早く亡くなっていった
ようです。
1907年 アドルフ ヒットラーが17才の時の出来事でしたが、
1903年に父親が亡くなり、 4年後、母親が亡くなり、ヒットラーは
大きく落ち込んだようです。
「アドルフ ヒットラーは、声をかけるのも気の毒な程度、うなだれ
泣き叫び、 随分可哀想であった。」と、語っていたそうで、 母親を
失ったのは、 ヒットラーの家の大黒柱が倒れたように大きな衝撃
となっていき、 ヒットラー家は滅亡というか、バラバラになっていく
のです。
【明日に続く。】