第1320回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1319話 被告人になった ヒットラーの事。 2015年10月12日月曜日の投稿です。





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                   【 ヒットラーの母親 クララ 】


        1907年 日本の明治39年12月21日に、ヒットラーの母親のクララ

       が、現在で言う 乳がんで死去すると、 ヒットラーの家では、姉弟ケンカ

       が始まったようです。

       このケンカについても、研究家の間では、いろんな説があって、 いろんな

       推測を総合すると、原因は ヒットラーの身勝手な行動に、異母姉の

       長女のアンゲラが、堪忍の尾が切れたようです。



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   どういう事かというと、 父親のアロイスが、レストランで倒れて亡くなった後、

   わずかな遺族年金で生活していたのですが、 ヒットラーは学校にも行かず

   中学校を2度も落第して、退学となり、 絵の勉強がしたいと、母親に泣き

   ついて、ウィーンに行っている間、 母親のクララと、 姉のアンゲラは、

    必死に仕送りをするお金を作っていたようです。

   そのような苦労がたたって、母親は病気になっていったと考えていたよう

   です。



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   ところが、 ヒットラーが、ウィーンの美術学校を不合格になったと言う事を

   隠して、仕送りを受けていたことがわかり、 激怒したようです。

   これらの事は、 当然のことであり、ヒットラーが悪いわけです。

   つまり、 自分のことしか考えていないので、このような事をしでかすわけ

   です。



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               【    ヒットラーの妹  バウラ ヒットラー 】



    当時 長男で、ヒットラーの異母兄の アロイス ジュニア ヒットラーは、

    1896年に14才の時に、父親の家庭内暴力が嫌になり、家出して、11年

    行方不明で、 残っていたのは、当時24才の 異母姉のアンゲラと、

     当時17才のアドルフ ヒットラーと、 末の妹の、当時11才のバウラの

    3人でした。

     そのうち、姉のアンゲラは、ラウバルという人と、結婚していて、家から

     当時、出た形になっていたのです。

     アドルフ ヒットラーの言い分は、 長男は行方知れず、姉は嫁に行き、

     ヒットラー家の家や土地財産は、 自分が相続することが筋であると

     主張したようです。



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              【   当時住んでいたと言われるヒットラーの家 】

 
        ところが、姉は 裁判所に訴訟を起こし、 ヒットラーを被告人にして

        遺産相続と国からの育児補助年金の受取を申し立てたのです。

        姉の言い分は、「 アドルフは、 学校にも行かず、2度も中学を

        退学処分となり、 母と私にウソをついて、仕送りをさせて、ウィーン

        のウィーン美術アカデミーに通学していると言っていましたが、ウソと

        わかり、 仕事をせず、収入もなく浪費ばかり、 とても11才の妹

        を養育する能力があるとは考えられない。

        父母の遺産は、 生存している兄弟4人で均等に分配相続すべきで

        あり、 末娘の養育は、私が責任を持ってひきとって養育したい、

        ついては、国からの養育扶助の年金を全額を私が受け取り

        たい。」と、 こういう申し立てであったようです。



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        アドルフ ヒットラーは、 一方的に自分の考えを主張したようで

        すが、裁判所の判決は、 姉のアンゲラの言い分がそのまま通り、

        末娘のバウラの養育は、異母姉の アンゲラがひきとって養育し、

        ヒットラー家の財産は、 家屋敷を売却して 公平に4等分し、分配し、

        国からの養育扶助年金は、末娘を養育する事になった、姉が受け

        取る事が決まったようです。

        このような事情で、 ヒットラーの家は、他人に売却されることになり、

        ヒットラーは、 仕方なしにウィーンの下宿に戻ることになったの

        ですが、 もう仕送りはしてもらえなくなり、遺産の取り分の700

        クローネを受け取ったと、記録があるそうです。

      

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    後に、ヒットラーは、ドイツ軍を率いて、自分の生まれ故郷のオーストリア

    武力侵攻し、言う事を聞かないオーストリアの大統領を処刑して、関係者

    7万人を粛正するのですが、 親衛隊と マルティン ポルマンを故郷に

    派遣して、 元住んでいた家に住んでいた 住人を追い出して、 家と、

 

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             【 左から二人目が、マルティン ポルマン 】



     自分が通っていた学校を、接収して無人にしてしまうのですが、当時、

     裁判所に訴訟を起こされ、 被告人にされ、母親は亡くなり、 故郷には

     よい思い出はなかったようです。

     つまり、 故郷には、家もなくなって、帰る場所がなくなったのです。

     このような事情で、ヒットラーは故郷を捨て、ウィーンにまた戻ることになり

     よい思い出のない故郷を捨てて、戻ることはなかったようです。 


     【 明日に続く。 】