第1326回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1325話 ヒットラーの考えた職業の事。 2015年10月18日日曜日の投稿です。




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         1914年 大正3年というのは、海軍の 山本権兵衛 内閣が、

         汚職事件の混乱で総辞職し、 陸軍の山縣 有朋公と迎合した

         大隈重信という人が総理大臣になるのですが、 ちょうど、山本

         内閣が末期の春先に、 オーストリア ハンガリー帝国の国民で

         あったアドルフヒットラーは釈放されて、 放免となり、また

         となりのバイエルン王国の首都 ミュウヘンと言う都市に姿を現す

         のです。



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         当時 24才のヒットラーがどおして、ミュウヘンという都市に2度目の

         国外に出国したかというのは、謎の多い部分で、 いろんな人が

         いろんな推測話を主張しているのですが、前後の流れから推測




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         すると、 ウィーンなどに戻ると、 ユダヤ暴力組織に借金の

         取り立てにあうのがわかっていたので、 そのまま、となりの国に

         出国したというのが、ほぼ間違いないようです。 

         そして、どうして ミュウヘンという都市であったかというと、どうも

         自分が絵を描きたいのですが、 自分の絵が未熟であると



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         ヒットラー自身が自覚していたようで、 バイエルン王国の絵の学校

         に行きたいと思っていたようです。

         そこで、となりの国の首都に行くことにしたというのがほぼ間違いの

         ない事実のようです。

         ヒットラーの絵というのは、一方的な、つまり 見る人のことは一切

         考えない自己主張の絵であったようです。



         ミュウヘンの町の仕立て屋職人のホップという人の薄暗い屋根裏

         で生活を始めたヒットラーですが、収入が無いわけですから、

         なんとか食べていかないといけません。

         そこで 初めに彼が考え出したのが自分の絵を売ることでした。

          しかし、大きな絵はなかなか売れなかったようです。


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          次に考え出したのが 白地のはがきに 自分で挿絵を描いて

          販売することでありました。

          実は、これもうまくいかなかったようです。



          ヒットラーと言う人は 数学が出来ず、 中学校を2度も退学になった

          人で、当時24才でしたが、 計算が浅かったようです。



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          何の商売でもそうですが、1日にいくら利益を上げていかないと

          いけないか、 そして生活するのに 1ヶ月いくら金額が必要なのか

          しっかり把握していなかったようです。

          当時の マルクの金額で言うとわかりにくいので、わかりやすく

          日本円でたとえ話を紹介すると、 人が仮に 1ヶ月生活するのに

          10万円必要であったとします。

          単純に30日で割ると、1日約3400円程度稼ぐ必要があると

          こう言う答えが出てきます。

          無地のはがきが50円として、 絵はがきの単価が倍の100円

          としても、 利益が50円とすると、 1日に最低68枚 描く必要が

          あります。


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         当時、 仮に描いても、不景気の真っ最中で、ヒットラーの描いた

         絵はがきなどは売れず、 どんどん手持ちの現金は無くなっていった

         ようです。

         商売というのは、ある程度単価というのが必要で、二足三文の品を

         利用して生計を立てる場合は、 大量に商う必要があり、 そこで

         当時の業者は、挿絵を印刷して絵はがきを販売していたところに、

         ヒットラーは手書きで商売しようとしたようですが、成り立たなかった

         ようです。


         【 明日に続く。】