第1447回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1446話 私の宗教観の事。 2016年2月17日水曜日の投稿です。




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       【 陸海軍合同航空隊創設を唱えていた、 草鹿 龍之介海軍中将】





  日本海軍航空隊と 日本陸軍航空隊を一緒の装備にして、 いままで陸海軍

2系統の生産設備を一本に統合し、空軍の様な組織を創設しようという話は、

草鹿 龍之介 海軍中将が、大東亜戦争開戦前の少将時代に考えて、陸軍省

談判に行ったのが始まりですが、 陸軍省にきっぱり断られたのです。

  草鹿閣下は、海軍と陸軍が、 プロペラは違う、操作方法は違う、弾薬が違う

  教育が違うでは、二重行政となり、無駄であると主張されたのです。

 つまり、海軍の航空機の機関銃に、陸軍の飛行機の機関銃の弾薬は

 品物が違うので、 使えず、 ネジに至るまで 交換性が無かったのです。

 ところが、当時、 陸軍と海軍は予算の取り合いで仲が悪く、相手にされなかった

 のです。



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                    【   源田 實 海軍大佐 】


   その後、大東亜戦争こと、太平洋戦争が始まり、 陸軍と海軍の航空隊の

   統合を叫んで、 陸軍省に乗り込んだのは、 源田 實 氏でした。

   当時、まだ、 サイパン島などが陥落する前、 私が、ミッドウェイ作戦で

   爆風で吹き飛ばされ、 どういうわけか、神のご加護で命は助かったのですが、

   両足に重傷をおって、 松葉杖をついていた頃で、昭和18年頃の事だったと

   記憶しています。

   マリアナ諸島が、米軍に占領されると、日本は長距離爆撃機の行動範囲

   となり、多くの被害が想定されるので、 サイパン、グアム、テニアンなどの

   マリアナ諸島を 陸海軍協同で、精鋭パイロットを集結して、防衛しようと

   こう言う考えであったのです。

   ところが、陸軍省では、「 南洋諸島の防衛は、海軍の持ち場だ。」と言って

   断られたのです。


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            【 愛媛県 松山市  海軍 新撰組 集合写真 】


彼は、当時の上司、 黒島 亀人 海軍少将に直訴して、 格下である

隊司令に、海軍軍令部を飛び出して転勤を願い出て、 松山市の航空基地

を本陣にして、ミッドウェイ作戦の教訓を生かして、偵察に重点をおいた防空

システムを立案して、日本の空を守る部隊の錬成を始めたのです。


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                   【  当時の、戦果を宣伝する 新聞 】



   当時の東条内閣と、陸海軍報道部は、日本陸海軍連戦連勝の新聞記事を

日本の隅々まで配り歩いて、多いに戦争遂行を宣伝せしめ、 多くの人々がそれを

信じて、疑わなかったのです。

 しかし、 源田 實 氏は、日本の将来を考えて、 その対策を考え、実行しようと

 していたわけです。






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             【  中央が 日本海軍 第304空 源田 實 司令 】



 彼は、その明晰な頭脳で、いずれサイパンなどの南洋諸島は米国に占領

されると、当時から予想していたようです。




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当時、 サイパンなどの南洋諸島は、東条内閣が、絶対国防圏と位置図けて

多いに宣伝していたので、 だれも その話を信じて、遠い島の話と思っていた

人が多かったのです。 


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 旧ドイツ帝国の植民地で、 第1次世界大戦で日本領になった、南洋諸島が 

陥落して、その後どういう対策、対応をして、日本国民を守るかと考えていた

人は当時少なかったのです。



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その頃、私は そのマリアナ諸島の防空を担当する、第1航空艦隊の航空参謀

として、テニアン島の司令部にいたのですが、源田と入れ替わりに東京に呼び

戻されたのです。

その後、 一緒に仕事をしていた、角田海軍中将などの面々は、全員戦死する

ことになるのです。

  どういう訳か、私だけ命が助かったのです。



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         【  豊田連合艦隊司令長官と 淵田 美津雄 海軍大佐 】





 サイパン島や、グアム島 テニアン島が占領され、 アメリカの爆撃機が日本に

爆撃に来るようになって、 陸軍が、 海軍に、「何とかしろ。」と言って来たわ

けです。


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  しかし、 連日連夜 じゅうたん爆撃され、もう遅かったわけです。

 機動部隊は全滅し、 パイロットのほとんどが戦死し、 飛行機があっても、

乗るパイロットがいない、 航空母艦はあっても、 着艦出来る技量のパイロットが

壊滅していたのです。

海軍航空隊は、 ジリ貧になり、戦力が低下していったわけです。

 こう言う状態になって、初めて、陸軍と海軍が一致して、米国に肉弾となって

 戦おうと、こうなっていき、 航空総隊というものが結成され、私はその航空総隊

の総参謀に指名されたのです。





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                       【 豊田 副武 海軍大将 】




   推挙してくれたのは、 陸軍嫌いで有名であった、 豊田のオヤジさんで

  ありました。

  「どんな人にも、人に嫌われない、 貴様が適任だ。」と、 推挙の理由で

  ありました。

   昭和20年8月5日、 来る本土決戦に備えて、広島市の西部軍司令部で

  会議があり、私は出席し、夕方、宿屋の女将に、「 淵田大佐さん、今日は

  泊まっていきんさいや。」と、さそわれたのですが、 「これから大坂や。」と

  言葉を残して、移動したのですが、 翌日の朝、原子爆弾が広島に落とされ、

  私は命拾いをしたのです。



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    宿屋に泊まっていたら、 間違いなく死んでいたでしょう、その宿屋は、

  原爆ドームの すぐ近くの猿楽町にあったのです。

  翌日の8月7日、 海軍艦政本部の、 私と奈良県の同郷の、安井 保門

  海軍大佐と、広島市に被害調査に入ったのです。




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      宿屋は跡形もなく、 調査の目的は、新型爆弾がどこに落ちたのか、

    破壊された 直径を調べて、半分に割り、 爆心地を割り出し、威力を

    確認するという作業でありました。


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  しばらくして、 むしの息の重傷の少女が、「水、水ーー。」 と、小声で

  話していて、「 しっかりせにゃあかんで。」 と声をかけると、皮膚が溶けて

  目がつぶれていて、目が見えないらしく、「 にいちゃん、かたきとってくれ。」

  と、言い残して、息をひきとったのです。

  少女は、私のことを兄と思っていたのでしょうか。



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  私は、 もう少し 高高度が飛行可能な戦闘機があったら、 優秀なパイロットが

大勢いたら、アメリカの爆撃機に好き勝手させぬ物をと、心の中で怒り、悔しい思いと

  自分のふがいなさに、腹が立ったのです。


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  私が、航空戦の作戦を考えても、 実行する部隊が少なく、そして、肝心の

  航空燃料が我が国には、ほとんど残っていなかったのです。 


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  日本は、インドネシアのオランダから奪い取った 油田を陸軍が管理していた

  のですが、 石油は豊富に産出していたのですが、 それを運ぶ輸送タンカー


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  が、 アメリカの潜水艦や、航空機に次々撃沈され、 アメリカの海上封鎖で、

日本は、日干しになるように、 干上がっていったのです。 



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  つまり、シーレーンと呼ばれている、 海の海上輸送路の制海権と、制空権を

確保出来なかった事で、 輸送手段を撃破され、 原料を輸入できず、兵器や

食糧を前線に届けられなくなっていったのです。   



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   その数日後、 同様の原爆が長崎に投下され、私達は その翌日に長崎市

  入ったのです。

  その後、どうしたことか、 同行したみんなが、高熱や、吐き気を訴え、 頭髪

  が抜け落ち、血を吐いて、 ロウソクのような白い肌になって 倒れていったの

  です。

  今思えば、 放射能におかされて、亡くなっていったのです。

  しかし、 私だけ、どういう訳かその症状は出ず、 死ぬ事は無かったのです。

  今思えば、不思議なことで、 イエスのご加護があったのでしょうか。



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 多くの人が戦争で亡くなり、その死を見つめて考えたのです。

どうしたら、2度と こう言う惨劇が繰り返さないように、日本という国を守れるのか、

確かに、兵器は必要であって、 どんな国の権力者も 一定の武力、力のない

国は、 外交の交渉相手として認めず、 力弱い国は侵略され、国民は悲惨な

目に合うのは歴史が語っています。

  つまり、口先だけ、外交だけでは、平和は保てないのです。

  それが国際社会の今の現実であります。

  実際 使用することのない戦力を 抑止力と言います。

  抑止力は、必要最低限、日本民族を守る為に、使うことはあってはならず、

  また、 その備えとして、 必要なのです。



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 なるほど、航空機や、陸上兵器や、軍艦などの艦船や、核兵器やミサイルが

この世からすべて消えてしまえば、大変良いことです。

しかし、現実の国際社会はそうではないわけです。

理想と、現実があるわけです。



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この国際社会の歴史と現実に目を向けず、兵器を保持しないと言う人は、国民

の安全と、穏やかな生活を保つ上で、無責任な考えであるし、 その人は、

自分の事しか考えていない考えの浅い人であるし、勉強の足らない人と思うの

です。

どのような苦労の上に、 日本という平和な国が保たれているのか、外交と、

防衛の現場を 実際の現実をよく見て勉強する必要があると思います。




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戦後、私は、 佐藤元海軍少将から、「台湾の国民党の空軍創設に合力しない

か。」と、誘われたり、 「警察予備隊に入らないか。」 と、誘われたりしたのです

が丁重にお断りし、 洗礼を受け、 イエスの僕となったのです。



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           【  航空自衛隊   源田 實  航空幕僚長 】


 源田氏から、「 貴様、 日本の坊主になるのならともかく、 アメリカの坊主に

なるとは、何を企んでおる。」と、 言われたりもしたのですが、 私は、両国で

宗教を通じて、両国の人々の心に呼びかけることで、2度と戦争にならないように、

人類共存と平和を説いて歩くことにしたのです。



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 そんな私を良く思わず、 「 売国奴国賊。」と叫んで、日本刀を抜いて、私の

 に天誅を加えんと、ある 元特攻隊員の若い青年らが、私の留守中、妻が一人

 留守を守る自宅に押しかけた事もありました。

  「多くの兵士を 特攻隊で戦死に至らしめ、 おのれは、米国の坊主になり

 はて、今さら、なにが、世界平和か、 笑止千万。」 と言うわけです。

 私は、 自身のことで家族に、大変な迷惑をかけていたと思っています。

 国家という物は、必要最小限戦力を保持すると言う事は必要な事ですが、

   私は我国の国民を守る 防衛兵器にも限界を悟ったのです。


 
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     それは、多くの資金を投入して、 国民を守る兵器を数多く揃えれば

    相手も、考えておかしな事は、日本に対して行わないかもしれませんが、

    このような兵器の抑止には、限界があるのです。




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          多くの死を見つめて、なにを悟ったかと言いますと、大切な事は、



          世界中の人々の心を1つにまとめることであります。



  身の回りの人を大切にする心、 道徳ですが、 宗教活動を通じ、国境を

  越えて、いろんな国のいろんな人種の人々に語りかけ、 お互いを思いやる心

  と世界平和を説いて、資本主義や共産主義の枠を越えて、戦争のない世の中

  にしていく、これが、亡くなった人達の為にも大切な事であると考えるように

  なって行ったのです。



 「 宗教とは、 人を支配したり、 人殺しを正当化する理由にしたり、戦争の

   道具や、 お金儲けの騙りの道具にしてはならないのです。」

  

 「 宗教とは、 人々の生活に寄り添い、 人々の心の支えであるべきなのです。」




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   どういうわけか、 神のご加護で私は生き残り、残りの人生を人類共存、

   世界平和を説いて歩くことになっていったのです。



   【  明日に続く。】 【  転載可 】