第1448回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1447話 大正12年当時の私の事。 2016年2月18日木曜日の投稿です。
私は、奈良県の葛城村という場所の、小学校の教員の息子として生まれ、
小さな時は、おとなしい子供で絵ばかり描いて、楽しんでいたのです。
母親のシカが、体が弱く、 病がちで、 母は、私が医師になる事を願って
いたようです。
【 奈良県立畝傍中学 現在の 畝傍高等学校】
その後、奈良県立畝傍【 うねび】中学に進学し、「 さすがは、校長先生の
ところのぼんさんや。」 と言われる程度、勉強が出来たのですが、当時、
おとなしい少年で、 学校の教室で、先生にあてられると、 起立して、 すぐ
顔が、 恥ずかしくて、赤くなってしまう所があって、同級生から、つけられた
あだ名が、 タコ つまり ゆでだこ と言う意味の名前をつけられ、「 おい、タコ、
タコ。」 と、当時呼ばれていたのです。
担任の先生が、授業中、「 おい、 たこ、おまえや。」 と言う物ですから、
みんながまねして、 「 おい、たこ。」 と呼ぶようになって行ったのです。
三重県の 観海流の水練の講習会では、 ふんどしに、 多幸 タコ と、墨で
落書きされ、 ひどいめにあったこともありました。
海軍兵学校 第51期を受験したのですが、 当時、各県で採用枠が一人
程度の定員の難関で、 不採用となってしまったのです。
この当時、合格したのが、 広島の原爆の爆心地の調査に一緒に入った、
安井 保門 海軍大佐 でありました。
彼は、軍人と言うより、科学者で、 3式弾なる 砲弾の炸裂弾を開発したり、
随分出来のよい頭脳明晰の生徒でありました。
【 陸軍に暗殺された 原 敬 内閣総理大臣 】
当時、私に追い風が吹いたのは、8 8 艦隊計画というのが 原総理によって
予算がつけられ、 大型戦艦 8隻、 高速巡洋戦艦 8隻 合計16隻の建造
が始まり、 海軍士官もそれに合わせて、 大量採用が翌年あり、 浪人して
第52期の 海軍兵学校生徒として 入学できたのです。
入学は難しかったのです。
故郷の葛城村で、 「 淵田 美津雄君 万歳、 大日本帝国万歳。」を連呼
して、 祝福してもらい、 江田島に来たのですが、 途中で投げ出して奈良に
帰るわけには行かなかったのです。
江田島に来ると、 各県のエリートばかり、 それも、私より年下で、
なにをやっても、私より出来る面々ばかり、 その代表が、2才年下の、源田 實
生徒でありました。
【 2才年下の同期の 源田 實 海軍大佐 】
彼は、なにをやっても、私より良くできて、成績がよかったのです。
に合格し、 17才で入学して来たわけですから、 すごい生徒であったのです。
そんな私は、なんとか、存在感を示そうと、何事も積極的に手を上げて、参加し、
教官が、 用件を言う前に手を上げ、志願する程度、積極的であったのです。
源田 生徒から、「 こんなーーぼれーー目立とう精神じゃのうーー。」と、言われる
程度、 すこし度が過ぎた程度、何事も積極的に取り組んでいたのですが、
成績は、中段よりも、上にあがることは、まれであったのです。
そのような事情で、浪人生として、年下の生徒に負けたくない一心で、
学科に取り組んでいたのです。
途中やめして、 奈良県に帰ることは許されなかったのです。
が2機飛来し、 私は運良く体験飛行することになったのです。
当時21才でありました。
みんなが見守る中、 江田内を離水して、 江田島の上空を旋回したとき、
今でも良く覚えています。
【 大正時代の海軍兵学校 】
空の上から、兵学校を見たら、 生徒は飯粒程度の大きさで、ずいぶん
空からの景色がきれいでありました。
海軍兵学校の生徒で、初めて大空を飛んだのです、 人生で大変大きな
出来事でありました。
源田生徒が、空を飛ぶのは、 昭和4年の25才になってからですから、
空を飛ぶ事については、 私が1番早かったわけです。
【 東郷 平八郎 聯合艦隊司令長官と幕僚 右から2人目が 加藤参謀長】
にあり。」 と、 成績は今ひとつでしたが、 有名になっていた頃、 原 総理が
東京停車場で暗殺され、 髙橋 是清 総理を経て、 広島県出身の 加藤
凍結され、 海軍の人員か整理が始まったのです。
【 加藤 友三郎 内閣総理大臣 】
やり手の軍人でしたが、 どういうわけか、兵学校の職員や、生徒を
人員整理の対象として、 どんどん、「 御国のためである。」 と言って、
削減していったのです。
私が、入学できなかった、第51期の生徒が大正12年に卒業すると、
クビにされるのかと、 いろんな噂がささやかれていたのです。
私は、自分が整理人員の中に入らないように、 兵学校の中の神社で
このまま 海軍将校になれるように、神に祈っていたのです。
どういうわけか、 大正12年の初夏に、加藤 内閣総理大臣が病死し、
を組織することになったのです。
いつものように、私は積極的に 救援隊に志願したのですが、 関東地方
出身の生徒を優先するという基準で、 奈良県出身の私は、 その選考
から漏れたのでした。
そんな経緯で、 私達は、 江田内を出発する海軍兵学校 特別救援 隊を
西側の護岸から 見送ったのです。
【 明日に続く。】