第1450回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1449話 高松宮殿下の海軍短剣の事。 2016年2月20日土曜日の投稿です。





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    私が、広島県江田島海軍兵学校 第52期生徒に採用された当時、

  大講堂で、 成績のよい順番から、一人一人に海軍将校の身分を示す、 短剣

  の授与を受けるわけです。


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   この海軍の短剣は、私達にとっては、身分を表す物であり、 かしこくも 天皇

 陛下から拝領した、命よりも大切な短剣であったのです。



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  大正10年当時、この海軍短剣を腰にぶら下げて、外出すると、江田島や、小用

  港の住民からは、 「 ほぅーーー。」 と言う、目で見ていただき、 なんだか、

  自分が出世して、偉くなった、そんな感じがした物です。


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  今日のお話は、現在は知る人が少なくなった、 高松宮 宣仁親王殿下の

  【 たかまつのみや のぶひと しんおう でんか 】短剣についての 昔話を

  お話しします。



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                    【 高松宮 宣仁 親王 殿下 】


  以前、数年前ですが、海軍兵学校での 高松宮 殿下の暮らしぶりは紹介

  しましたが、 復習も兼ねて、簡単に紹介させていただきます。


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              【 大正天皇 明宮 嘉仁 親王殿下 】


   私が海軍兵学校の生徒であった当時の天皇陛下は、 大正天皇 こと、

 明宮 嘉仁 親王殿下 【 はるのみや よしひと しんおう でんか】 でした。



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                    【  当時の皇室御一家 】


    上の写真の 左から2番目 のお方が、 皇后陛下で、 九条 節子 さん

    【 くじょう さだこ 】 さんと言われ、15才で、天皇家に嫁がれました。

    その後、4名の男子が誕生し、 左から順番に、 


        裕仁 親王殿下   後の 昭和天皇

        淳宮 薙仁 親王殿下  後の 秩父宮殿下

        高松宮 宣仁 親王殿下 後の 高松宮殿下

       少し年が離れて、


        澄宮 崇仁 親王殿下 後の三笠宮殿下 


       の 6人家族でありました。

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                 【  優しい 父親であった、 大正天皇 】




    ところで、三男の 高松宮宣仁 親王様が、学習院で学ばれていたのです

 が、 当時、海軍の将官で皇族であった、 伏見宮殿下のお話に影響されたのか

 海軍を志願され、 15才の当時、江田島兵学校入校を希望されたのです。

 海軍兵学校の生徒は、 平均 18才、戦後の現在の高等学校卒業程度の

 生徒が入学してくるわけで、 随分早い志願であったのです。


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  そこで、海軍省では、 特別に、 海軍兵学校 予科実習生という、身分を

  当時、高松宮殿下のために作って、 対応したのです。

  殿下が実際、江田島に入られたのは、 私よりも1年早い、第51期が入学

 した年、つまり 1920年 大正9年の事でした。 

 今日のお話は、 殿下が入学される、 約一年前の出来事で、大正8年に

入ってからの事でありました。



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                 【 当時の校長 鈴木 貫太郎 海軍中将 】


   宮内大臣から、海軍大臣に伝達があり、 海軍省から、高松宮殿下が

  江田島にお下りになると言う事を命令を受けた、当時の海軍兵学校の校長先生

  は、鈴木 貫太郎 海軍中将でありました。

   陸軍がおこした、 反乱 226事件では、反乱軍に自室を襲われ、一斉射撃を

   受けて、 瀕死の重傷を負い、 また、昭和20年には、昭和天皇のたっての

   懇願で、 内閣総理大臣に就任し、 8月14日の夜、陸軍の反乱部隊が自宅に

   押し寄せ、放火され、全焼すると言う事件にあったりと、 大変な人生の海軍

   軍人でありました。


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     当時、 鈴木閣下は、 高松宮殿下の 海軍の短剣を入学までに急いで

     整えて、入学の準備、 殿下が寝泊まりされる宿舎の整備を急いで行う

     ことを海軍省から命令を受けたのです。

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   そこで、急いで 高松宮殿下の短剣を鍛造するにあたって、だれがよいか

と言う事になり、 前話で紹介した、 呉市刀剣倶楽部の企画した、大正天皇陛下

に太刀を献上した、 御刀を鍛えた、 元、備後福山藩11万石 御用刀匠 の

横山 祐義 【すけよし】 さんに、海軍兵学校から発注をすることにしたのです。




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                刀匠選定の理由として、



 その1、 明治21年8月13日に 明治天皇に対して御刀を献上している事、

 
 その2、 明治43年11月13日に、伏見宮殿下に対して御刀を献上している事、


 その3、 明治45年4月5日に 有栖川宮様に 十文字槍を献上している事、


 その4、 同  上      に、有栖川宮妃の舞子様に御刀を献上している事、


 その5、 大正4年 11月23日 に、大正天皇に御刀を献上している事、


 その6、 岡山県備前立川村の大地主 矢吹家の次男で、備前長船の横山

       祐成の長男として養子縁組し、 備後福山藩11万石のお抱え御用

       刀工で、元治から慶応にかけて、百数十の刀剣 を打って福山藩に

       納品し、 実績、家柄など、申し分ない事。

 
                以上の理由が、 刀匠選定における理由とされたのです。




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                 【  当時の焼失前の福山城 】


   当時、横山 祐義 さんは当時、広島県福山市の胡町にお住まいで、 海軍

  兵学校から、 御刀の作刀依頼の伝令が出発することになったのです。


    【 明日に続く。】