第1451回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1450話 鈴木貫太郎司令長官への陳情の事。

                           2016年2月21日日曜日の投稿です。





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   広島県福山市在住であった、 元 備後福山藩11万石 御用刀匠であった

   横山 祐義 【すけよし】さんに、高松宮殿下の海軍短剣を鍛造していただこう


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   こういう、 呉市刀剣倶楽部の会員の推薦もあって、 当時の海軍兵学校

  校長先生であった、鈴木 貫太郎 海軍中将は、 横山さんに高松宮 殿下

  の海軍短剣を発注することにしたのです。

  当時は、 技量もさることながら、 家柄 というのも大切であって、祐義刀匠

  は、皇室の皇族の御刀を鍛えていて、 当時は知られた存在であったのです。


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          【横山祐義の刀を愛用していた 有栖川宮威仁親王殿下 】


   大正天皇の後見役でもあった、 有栖川宮威仁親王殿下 【ありすがわのみや

   たけひとしんのうでんか】 や、 当時、海軍中将であった、 伏見宮博恭王

   殿下 【 ふしみのみや ひろやすおう でんか】の 佩刀も、 横山 祐義作

   の御刀であったのです。



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    【 皇族で唯一 黄海海戦などに実戦出陣経験があった 伏見宮博恭王

  
    そして、 有栖川宮殿下が、大正2年に亡くなると、 その宮家を宣仁王

    つまり、高松宮殿下が相続されていたので、 殿下の短剣も、祐義 刀匠

    につくってもらう事に、 特に異論は当時出なかったのです。



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              【 海軍兵学校時代の 高松宮 宣仁親王 殿下  】


   このような経緯で、 大正9年10月30日 高松宮殿下の海軍短剣は、

   海軍兵学校に納品されたのです。


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     【 海軍兵学校での写真、 前列左から5人目が、鈴木 貫太郎 閣下 】



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             【  上の写真の 拡大画像 中央 鈴木 閣下 】





   やっと、 短剣が出来上がったと、鈴木校長が短剣を眺めていた一ヶ月後

   11月30日付で、 移動命令が発令され、 海軍兵学校 校長には、以前

   紹介した、 千坂 智次郎 海軍中将が着任し、 鈴木閣下は、今度は、

   12月1日付で、第2艦隊司令長官に就任されたのです。


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          【 先頭 左が鈴木貫太郎 海軍大将 右が 昭和天皇 】



   鈴木 貫太郎 海軍中将は、どのような人であったかと言うと、昭和天皇

   「 鈴木、鈴木。」 と随分頼りにされ、 出来ない事は、出来ない、 出来る事は

   出来る、 そして、 即断、即決、 「 わしが全責任を持つ、突撃せよ。」と、

   こういう感じの人でありました。



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        【 千葉県 野田市 育ちの 鈴木貫太郎 海軍大将 後の首相 】





    鈴木閣下は、千葉県野田市育ちで、 広い関東平野で育ったからか、サッパリ

    していて、 思慮深く、決断が早く、 その人柄は、多くの人を引きつけていた

    のです。


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               【 広島県 呉市 の呉鎮守府 司令部 】





     年は変わって、大正11年、 私が海軍兵学校に、入学した翌年ですが、

    呉市の刀剣倶楽部の会員で、呉市内に多くの土地と借家を保有する

    児玉 勤 さんが、鈴木閣下を訪ねて、呉鎮守府 司令長官室を訪れたの

    です。

    当時、鈴木閣下は、 第2艦隊司令長官、 第3艦隊司令長官を歴任し、

    呉鎮守府 司令長官として呉の町に長官公邸に住んでいたのです。

    児玉さんの話というのは、、 高松宮殿下の海軍短剣を鍛えた、横山 祐義

    刀匠の生活の事であったのです。


    【 明日に続く。】