第1456回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1455話 爆雷演習の始まりの事。 2016年2月26日金曜日の投稿です。






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  ちょうど、大正12年の関東大震災があった頃、私が江田島海軍兵学校

  1号生徒になった当時は、潜水艦への対策、 潜水艦の運用というのが、

  どんどん進化していった、日本が外国の模倣から、 日本独自の方法に

  進んでいった頃でありました。



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                      【  ドイツ海軍の Uボート 】


    日本海軍は、以前紹介したように、欧州大戦こと、第1次世界大戦で、

    鈴木商店のフランス行きの輸送船などの護衛で、遠く地中海まで艦隊を

    派遣したのですが、 ドイツ海軍の新兵器の潜水艦に一方的に攻撃され、

    

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    大正5年から、8年当時まで、具体的な対処、反撃が装備がなかったので

    出来なかった、 そして そのことが大きな被害につながっていったのです。

    反面、 日本海軍では、「ドイツ海軍の潜水艦部隊を研究を要す。」と言う事

    で、多くの海軍将校が研究することとなって行ったのです。

    私と同期の 奈良県の同郷の 小池 伊逸 生徒 【後の聯合艦隊水雷参謀】
    
    も、その一人でありました。
    
  
 
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当時、ドイツの潜水艦 Uボートは、イギリス海軍、それを補助して合力して、インド

洋、アラビア海、地中海 と、輸送船を護衛する、日本海軍 駆逐艦、 輸送船に

大きな被害をあたえたのです。


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 アメリカの潜水艇を輸入して 運用した物の、これが まったく使い物にならない

1度潜行したら、浮上出来るかわからない危険な代物で、 大正9年当時、浮上航行

は許可が出ていたのですが、 「潜行は危険につき禁止せよ。」と、 命令が出てい

たのに、勝手に潜行して、上がってこなかったのが、有名な佐久間艇長の、潜水艇

沈没事故であったのです。


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   日本海軍では、 上海で、ドイツ海軍の潜水艦を接収し、 また、欧州では、

 フランス駐在の井上 成美 海軍中佐【 後の海軍大将】が、連合国と交渉して



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             【  左がUボート艦長時代の 山口 多聞 海軍大尉 】



   ドイツの潜水艦を戦利品として受取り、 山口 多聞 海軍大尉 【後の海軍

   中将】が、フランスからドイツの潜水艦を日本に持ち帰り、 日本国内で研究

   が開始されることになって行ったのです。

   後に、第2航空戦隊 司令長官として名を残す、山口 多聞閣下は、実は、

   潜水艦の艦長で、 フランスから スエズ運河を経由して、日本までUボート

   回航してきた事を知る人は戦後の現在少ないのです。



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    ところで、大正12年当時の日本海軍の潜水艦への対潜攻撃の方法と

   いうのが研究され、 当時の最新の戦法と言うのが、 視力のよい水兵を


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   見張りにして、潜望鏡をいち早く発見し、 攻撃される前に潜水艦の上の

   海面を押さえて、 爆発物、 つまり 爆雷を投下して、制圧するという

   戦法であったのです。

   つまり、海軍兵学校の武徳殿の壁に掛けてある、「 機先を制す。」 という

   教えを実行していったのです。



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        戦後の海上自衛隊の 教練 対潜戦闘訓練と比較すると、大正12

     年当時のやり方というか、 装備も、非常に原始的で、試行錯誤の連続で

     あったのです。



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     とこで、広島県 呉市の東の山の中腹の、日本海軍 呉 亀山神社日本刀

     鍛錬場が、 仕事を再開した頃、 呉鎮守府の参謀長、正木 義太 海軍

     少将に、 瀬戸内海のいろんな漁民の組合、  戦後の漁業組合のような

     集まりが、 県会議員や、市会議員と一緒に、押しかけてくる事件に発展

     していったのです。


      【  明日に続く。】