第1485回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1484話 国賊追討の気運の事。 2016年3月26日土曜日の投稿です。
暗殺未遂事件は、年が変わって、1924年の大正13年の正月に入って
詳しく新聞社によって報道されるに至り、広く国民に知れ渡ることになったの
です。
【 狙撃犯の 難波 大助 被告 】
ウソか、本当か知らないのですが、犯人の難波大助が共産主義者で、
内閣総理大臣は、責任を痛感し、 内閣を総辞職し、 警備を担当していた
警視庁の 湯浅 創平 警視総監を免職にし、 警視庁 警備部長の 正力
松太郎氏を懲戒免職にすると新聞は書き立てたのです。
正月早々、この新聞記事を目にした海軍関係者、 そして 私達海軍兵学校
の生徒は、「 なんやてー、 なんで、 こんなぼんくらが起こした事件を、海軍が
責任とらんとあかんのんかいなーーー。」と、 多いに憤慨したのです。
つまり、海軍の軍人が起こした事件ならともかく、 野党の衆議院議員のドラ
息子がおこしたことは、 父親の議員が責任をとって切腹すればよいことであって、
なんで海軍の山本 権兵衛 内閣総理大臣が、 総辞職せにゃあかんのかと
思ったわけです。
し、 夜も寝る前に東に向かって天皇陛下に拝礼していたのですが、私達に
とっては、当時、日本の皇室とは大日本帝国の神様であったのです。
その神様に向かって、共産主義を叫んで、皇太子殿下に鉄砲を発射する
とは、実にけしからんと、 帰省中の兵学校の生徒全員が考えたわけです。
そして、帰省休暇明けに海軍兵学校に戻ったら、 周囲の生徒と談合に至り、
分隊の小銃に着剣し、 弾薬を装填し、 難波 大助の父親の難波 作之進
なって行ったのです。
【 明日に続く。】