第1525回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1524話 日本海軍のヒットラーの研究の事。

                         2016年5月26日木曜日の投稿です。


イメージ 1


   
  日本海軍のアドルフ ヒットラーの研究というのは、昭和20年まで続けられて

いて、 いろんな人が研究していたのです。

 昭和19年頃、私と一緒に仕事をしていた、 神 重徳 海軍大佐は、鹿児島県の

人で、 ヒットラーの事の知識については、 おそらく海軍の中で5本の指に入る人

であったと私は考えています、



イメージ 2



         【 連合艦隊 首席参謀  神 重徳 海軍大佐  鹿児島県出身】


  神 海軍大佐は、 ずいぶん頭の良い人で、 海軍大学を首席で卒業された

 海軍の中でも 出世コースを歩む人であったのです。

 どちらかというと、 大砲屋 と呼ばれる艦艇の勤務が長かったのですが、昭和

 10年頃、 ドイツ大使館附となり、ドイツに転勤した時に、ヒットラーと出会い、




イメージ 3



   国家社会主義ドイツ労働者党の政治、 つまり経済政策を目のあたりにし、

  「国民一家に一台 マイカーを。」とか、 「高速道路の整備をして、週末は

  家族でドライブを。」などと言う、 宣伝や経済政策などを日本でもよい部分は

  模倣したらどうか、つまり、ヒットラーの経済政策のよい部分を模倣して、 当時、

  昭和大金融恐慌と呼ばれる不景気で苦しんでいた大日本帝国を、なんとか、

  よくできないかと考えていた、海軍の佐官の1人であったのです。




イメージ 4



         【 第8艦隊 司令長官  三川 軍一 海軍中将 広島県出身】




    神 海軍大佐は、 海軍の中にあって、ドイツ信奉者の1人となり、日独伊

    三国同盟を主張していくのですが、 その後、大東亜戦争が始まると、三川

    海軍中将の 第8艦隊の 作戦参謀として力を発揮していくのです。



イメージ 5



                   【 第8艦隊 旗艦 重巡 鳥海 】


   私が、ミッドウェイ作戦で 重傷を負い、 横須賀の海軍病院に、空母蒼龍の

   飛行隊長の江草少佐と一緒に入院していた頃、 昭和17年8月初旬、神 

   参謀は、第8艦隊だけの少数艦艇による夜間強襲作戦を立案し、ツラギ沖合

   に進撃し、アメリカ海軍の重巡洋艦 4隻を撃沈し、 1隻を大破せしめ、 

   海軍軍令部を大喜びさせたのです。

   これらの戦果は、 手持ちの兵力が貧弱でも、 相手が大艦隊でも、「 見敵

   必戦の精神。」で、 全身火の玉となって、切り込んでいく、 江田島精神を

   発揮した作戦と言う事で、当時 拍手喝采を受け、 この夜戦のことを、

   第1次ソロモン海戦と呼んでいます。



イメージ 6
 
 

                 【 豊田 副武 連合艦隊司令長官 】


     そんな、神 海軍大佐を、 豊田 連合艦隊司令長官は、首席参謀に指名

    したわけです。




イメージ 9



    神 首席参謀は、 ヒットラーに心酔し、 髪型もヒットラーのような髪型に

    整えて、 鼻の下にヒゲをわざと はやして、 ヒットラー風に整えて、部隊

    への訓示も、 ヒットラー風の演説をまねして、 独特な訓示を行っていた

    のです。



イメージ 7
 


  「 神 首席参謀、 ヒットラー総統ちゅー人は、どんな演説をする人でありま

 しょうか、 聞かせていただけませんか。」 と 問うと、 嬉しそうに こちらを

 向いて、 「 淵田参謀、 実は、鹿児島の弟が 焼酎屋を営んでおって、この

 物資不足の中、焼酎を送ってくれてな、 貴様も 一緒にやらんか。」と、お誘いを

 受けたのです。

  「 とくとくとくとく。」 と、湯飲みに焼酎を注ぐと、 「 総統という人はなーー。」

 と、 ミュンヘンの裁判のお話を語ってくださったのです。




イメージ 8
  


    独特な演説と演技力で、人々を動かしていった ヒットラー総統ちゅー人の

    魅力とはどんな魅力であったのか、 次回から少しずつ紹介して行きたいと

    思います。



    【 明日に続く。】