第1550回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1549話 海軍兵学校図上演習の事。 2016年6月21日火曜日の投稿です。
ここ数日、ドイツの昔話をみなさんに紹介したのですが、「日本という国が
どうして焼け野原になっていったのか。」 という事を考える時にドイツや、イタリー
の海軍兵学校とその周辺の様子の昔話を紹介します。
今日紹介する 図上演習のお話の画像ですが、 図上演習と言うのは
隠密に作戦の前に行われる室内での演習の事で、機密保持のため、写真撮影
は御法度になっていた為に、それらしい古い写真が手元にないので、 新しく
撮影した物を代用させていただきます。
みなさんの中で 図上演習を行っている写真をお持ちの人は、 それはそれは
貴重品ですので、大切にしていただけたらと思います。
海軍兵学校では、3号生徒 【一年生の事】 の時は、基本的な学科と初歩の
軍律【 軍隊の中の決まり事】、などを学習し、 2号生徒【 二年生の事 】
になってから、 部隊運用や、専門的なことを学習していたのです。
そして1号生徒【 三年生】になると、 その応用が求められていったのです。
当時 多くの生徒が、時折、 海軍兵学校の西の江田内に入港してくる
「鉄の城のような艦艇の艦長になってーーー。」と、 妄想を膨らましていたの
ですが、私は、以前紹介したように、海軍兵学校で初めて空を飛んだ生徒と
の虜になっていたのです。
ところで私の同期の 52期のクラスの中に、私より3才年下の 高松宮殿下
在校されていたことは以前紹介したのですが、 殿下と私達が一緒に授業を
受けることはなかったのです。
しかし、 殿下は 射撃が好きで、 時々、 射撃大会には 顔を出され、自らも
出場されていたのです。
第12分隊から出場されていたのです。
おそばの学友 末国正雄 生徒 【第52期 山口県出身】のお話では、殿下は
ずいぶん嬉しそうな顔で参加されていたようです。
の対戦が発令されたのです。
図上演習と言うのは、 参謀時代 ずいぶんと経験したのですが、 実際
自分達が駒を動かしたのは、 この当時が初めてであったのです。
海軍の図上演習と言うのはどのようなものか 知っている人もいらっしゃると
思いますが、 まず 判定官 という人がいまして、 当時、記憶が薄いのですが
当時の判定官 は、岡本 絢 【けん】 海軍少佐 【海兵37期】 教官 兼 監事
であったと思います。
そして、 判定などを記録する 記録係が たしか 広瀬 末人 海軍大尉
【 海兵39期 】教官 兼 監事 それから サイコロを振るう係の人が、
川島 義之 海軍大尉 【 海兵39期】であったと思います。
当時 私達の分隊は、縦従陣の陣形で 艦艇を縦方向に連結し、先頭に
旗艦を配置して、 図上演習に臨んだのです。
当時の日本海軍のしきたりというか、 なんというか、指揮官は旗艦に
座乗して、艦隊の先頭を1番に航行し、 1番に敵艦隊に砲撃して見本となる
ような、 そういう事が求められていたのです。
これらの古典的戦術は、 第2次ソロモン海戦で、先頭を航行していた旗艦
青葉の艦橋に敵の発射した砲弾が 命中し、 艦橋が大破して 伊藤司令長官
が重傷を負い、幕僚が一瞬で戦死し、 艦隊が 深夜に命令を発信、受信できず
に、大敗するという大きな敗戦を迎えるまで 続けられていったのです。
【 明日に続く。 】