第1552回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1551話 海軍隠語の事。 2016年6月23日木曜日の投稿です。






イメージ 1




   1924年 関東大震災の翌年の3月19日  ドイツのミュンヘンの裁判所で

  アドルフ ヒットラーが、 熱弁を振るっていた当時、 日本の長崎県佐世保

  の沖合では、 日本海軍の軽巡洋艦 龍田 が 佐世保港をめざして 航行して

  いたのです。


イメージ 2



                    【 日本海軍 軽巡洋艦 龍田 】


  軽巡洋艦 龍田 と言うのは、私の郷里、奈良県の龍田川から名前を取って

  龍田 と名前をつけられた 全長が142メートル 3230トン 佐世保海軍工廠

  で 5年前の大正8年 3月31 完成就役の艦艇で、 関東大震災では、呉など

  から 横須賀、横浜、芝浦などに救援物資を運んで大いに活躍した艦でした。




イメージ 3



   当時の艦橋というのは、 当直士官という幹部が 交替で艦橋を統帥する

   決まりになっていたのです。

   24時間 艦は動きますから、 艦長や、航海長が 24時間ずっと勤務する

   訳にはいきません、 そう言うわけで、 夜などは 当直と言って、 順番に

   士官が、当直士官と呼ばれて、2時間程度おきに交替で 見張りをしていた

   のです。




イメージ 4



   艦橋の上には、 見張り士官という役職があって、 発見した物は、素早く

   愚直に艦橋に伝声管や、伝令で報告していたのです。 

   見張り員は、 判断はしないわけです。 水平線にマストが見えると、

   ただ報告するだけなのです。

   考えて、命令を発令するのは 当直士官なわけです。





イメージ 5



 
        では、他の人達はどうしていたかというと、日中は 艦橋などで勤務

      するのですが、 夜間などは、必要最小限の人数で当直士官が艦橋を

      統帥し、 他の面々は、食事をしたり、フロに入ったり、娯楽を楽しんだり、

      睡眠を取ったりしていたわけです。




イメージ 6





   「 高後崎が見ュ、 右舷 寄船鼻見ュ。」 と 見張り員が叫ぶと、

   当直士官は、 「 もうすぐ佐世保湾に入る、 警戒を厳とせよ。」 と、

   命令を出し艦を 高島をすぎて佐世保湾入り口方向に進めていったのです。

   佐世保湾というのは、 十文字に入り組んでいて、 中央から 左に転舵

   すると 当時の佐世保軍港があったのです。

   「 いよいよ、佐世保だな、もう少しだ。 操舵員 貴様は丘に上がったら

    何をするのか。」 と、当直士官が尋ねると、 恥ずかしそうな顔をして、




イメージ 7




   「  へへへっ 自分は Gaの所に直行であります。」と言う、 ここでGaという

   のは、なじみの芸者という意味です。

   「 きさまーー行きつけのGaがあるのか。」と問うと、「 へへへっ よい匂いがし

   て、ーーーー、1度行くと、 何度でも会いに行きたくなるGaであります。」と言う

   と、「 当直士官殿もいかがでありますか。」 と言うと、 「 バカな事を言うな、

    ワシのKAに知られたら 大変じゃ。」 という。

    ここでKA と言うのは、 かかあ の略語で、 女房殿という意味があったの

    です。

    「 当直士官殿、 行きつけのGaは、ひんやり冷たくてへへへへっ。」と

    話している最中に、 「  警報、11時方向 艦影 。」と、 見張りから

    大声で報告がもたらされたのです。



イメージ 8




  なんと、 気がつくと 艦の左前方に 潜水艦が浮いて上がってきたのです。

  見張り士官は、「 いかん、 面舵いっぱい、 両舷後進急げ。」 と命令を

  発令したのですがーーーーーーーー。




イメージ 9



    潜水艦は、あれよあれよという間に、 龍田の前に接近してきたのでした。



     【 明日に続く。】