第1553回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1552話 第43潜水艦衝突沈没事件の事。2016年6月24日金曜日の投稿です。





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    私達が教わったことは、 「水の 海面上ではブレーキは効かない。」と言う

  事を色々やかましく指導されたのです。

  これらの事は 末端の下士官、水兵に至るまでやかましく指導されていたのです。




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  ヒットラー総統が乗車している 車で例えると、 アクセルを踏んだら走り出し、

  クラッチを踏むと、 動力が切れて、 ブレーキを踏むと 車や自転車は停車

  することは みなさんがご存じだと思います。



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   ところが 海上ではそうではないのです、 氷の上を走る車の如しでありまして
 
水の上は すぐには艦艇は停止は出来ないのです。

 そして、艦橋で、 機関停止や、 両舷後進いっぱいを発令しても 機関室に

 命令が伝わり、艦が動き出すのは 数分後になるのです。



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    機関室も すぐに気がついてくれると助かるのですが、 こういう時に限って

    当直が ぼやっとしていたり、 そういうことが重なるのです。

    問題は、この数分が、 艦が動いているわけですから 数キロ進んで艦が

    停止するというのが通常なのです。

    そのような事情で、大きな艦になるほど、 動きが鈍いわけで、止まろうと

    思っても すぐには行動できないわけで、小型船や、遊漁船などの操舵を

    する人は、 大型艦の操舵員のそう言う立場になって考えて、操船する必要が

    あるわけです。

    それを考えずに、自分の考えだけで狭い水道などで身勝手な一方的な

    行動すると とんでもない海難事故に巻き込まれることになるわけです。



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    1924年 大正13年3月19日 まだ冷たい潮風が吹く頃、朝の9時前頃

    軽巡洋艦 龍田は、佐世保の北西 相浦の沖合にある、高島の西側海域

    を航行していたのです。

     当時の龍田の見張り員は、 11時方向に 潜水艦の艦影を発見し、

    艦橋に 愚直に報告したのです。



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    当直士官は、すぐに 決まりに従って 取り舵を切り、 機関室に 両舷

    後進いっぱいを発令したのですが、あれよあれよという間に、両艦は

    接近していき、 潜水艦の司令塔の少し前付近に 龍田が乗り上げて

    しまったのです。

    この当時、 龍田の艦長は、書類上 吉田 茂明 海軍大佐であったの

    ですが、 他の艦艇の艦長と兼任していて、 乗り組んではいなかったの

    です。




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         【 軽巡洋艦 龍田 大正8年3月 佐世保海軍工廠 完成就役 】



        この佐世保湾の外の高島沖で発生した衝突事故は、潜水艦が

        あっという間に、横倒しとなり、 海中に沈んでいったのです。



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       事故の顛末を眺めていた 龍田の乗組員達は、 佐世保に寄港して

      佐世保の町でどんな休暇を楽しもうかと、思いをめぐらせていたのですが

      大変な事になったと、 大騒ぎになって行ったのです。


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    衝突して 乗り上げて 相手は沈んでしまい、 ずいぶん航行して止まった

    わけですが、 急いで 潜水艦の沈んだ位置の特定を始めることになったの

    です。



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    後で、わかったことですが、この潜水艦は 第43号潜水艦と、当時呼ばれて

    いて、 その後、呂25号潜水艦と呼ばれる事になるのですが、内部には

    48人の乗組員が乗艦していたのです。



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    ちょうど、朝の9時過ぎ前後の出来事で、 すぐさま佐世保鎮守府

     「 ワレ センスイカント ショウトツス キュウエンヲ モトム。」と、電信で

    報告が行われたのです。


    【 明日に続く。】