第1554回 昭和の伝道師【戦中、戦後のバイロットの物語】
第1553話 佐世保鎮守府司令長官の事。 2016年6月25日土曜日の投稿です。
【 軽巡洋艦 龍田 3230トン 】
龍田 は、大正13年3月19日 朝9時前後に、 突然浮き上がってきた
潜水艦とT字になるように衝突してしまい、 潜水艦はあっというまに
泡を吹いて 沈没してしまい、大騒ぎになったのです。
【 沈没した 第43号潜水艦 大正10年6月 就役 】
ところで 沈没した第43号潜水艦というのは、 海中2型潜水艦という型の
潜水艦であったのです。
おおよその沈没場所を特定して、すぐ佐世保鎮守府などに、電信が発せ
られ、 龍田と 第43潜水艦の事故は佐世保鎮守府の知る所となっていたの
です。
【 佐世保鎮守府 司令部庁舎 】
海軍大将 伏見宮博恭王 【 ふしみのみや ひろやすおう】様であったのです。
戦艦 三笠に乗艦して、出陣し 砲弾で負傷されるなど、歴戦の勇士で、奥方
されているという、 私達とは違った世界の人でしたが、 ご自分で洗濯をされ
たり、 おにぎりや、漬け物、 それから、天ぷらうどんも好きな宮様として知ら
れていたのです。
【 次男の 華頂宮 博忠王 大正13年3月24日 死去 】
ところで当時、 伏見宮様は取り込みの最中であったというか、 次男の
博忠王様が、 軽巡洋艦の五十鈴 【いすず】に乗艦されていて、病に倒れられ
現在、その症状から、流行性髄膜炎が悪化したのではないかと言われているの
ですが 龍田の事故から5日後にお亡くなりになるのです。
当時、 父親として随分心配されていたと思うのですが、 そんな最中、
龍田の衝突事件の第一報が、 参謀長の 古川四郎 海軍少将から報告
されたのです。
伏見宮殿下は、事件の報告を聞くと、「 どのあたりか。」と問われ、急いで
から、潜水夫などを至急招集せしめ、 クレーン船なども急派して、対応する
よう 発令をされたのです。
そして、クレーン船 猿橋丸などが急派されたのですが、 だいたいの沈没
地点はわかっていたのですが、具体的にどこに沈んだのか、それから現地は
潮流もあり、 沈没位置の特定に大きな時間がかかっていったのです。
7時間経過した頃、 16時前後に、 海中から丸い物体が浮き上がり
それを見張り員がすぐさま目視で見つけたのです。
その浮いて来た物体というのは、当時最新鋭の日本海軍の潜水艦用の
救難装置であったのです。
この装置は、水中に潜水艦が沈没した場合、内部からの操作で
海面に浮き上がり、 電話線がついていて、浮き上がった浮きの中に
電話の受話器が付いていて、 ここから潜水艦の中と通話できる当時
呉海軍工廠で作られた最新鋭の救難装置であったのです。
早速 海面のブイに 短艇が横付けされ、沈没した潜水艦の艦内と
コンタクトが取られたのでした。
【 明日に続く。】