第1555回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1554話 日本海軍救命浮標の事。2016年6月26日日曜日の投稿です。




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 1924年の大正13年3月19日 長崎県佐世保軍港の北西の相浦の沖合の、

 高島西沖合で発生した、軽巡洋艦 龍田と潜水艦との衝突事故は、4時間後、

 午後に入ると、佐世保鎮守府の命令で、どんどん応援の艦艇が到着し、潜水艦

 が姿を消した付近で捜索が行われていったのです。


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   ところが、このあたりであろうと言う事以外、皆目、手かがりが無く、捜索が

   多いに難航していったのです。



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潜水艦が、真っ二つになった場合、油や何かが浮いて来るので、そうではなく

そのまま沈んで、着底しているのであろうと言う事で、潮に流されて 移動して

いることも充分考えられ、 周辺で海面を捜索したようです。



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   夕方の16時近くになって、 浮きのような物が海面に浮いて来て、急いで

   接近すると、 表面に真鍮板の表示板がついていて、 「 もよりの警察署に

   救助の連絡頼む。」と文字があり、 潜水艦の物と断定されたのです。



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    断定されたというのは、当時、潜水艦は日本海軍の新兵器で、情報統制

  が行われていて、 一般の海軍の兵士は、潜水艦の知識が薄かったのです。

  急いで、モールスで確認を佐世保鎮守府に問い合わせたところ、その浮きは、

  数年前に、正式化された7式救命浮標と呼ばれる品物であったのです。


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 この7式救命浮標というのは、艦の後部に取り付けられていて、機関室の内部を

 操作すると、 潜水艦の艦尾から分離して浮き上がり、ワイヤーロープで結ばれ

 ていて海面に浮いて、万が一、事故があった場合、海面に浮いて救助要請する

 最新鋭の救難装置であったのです。



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   おそらく、誰かが潜水艦内で生存していて、 衝突から7時間後、なにがし

かの方法で、これらの操作をして、 潜水艦の後部から救命浮標が浮き上がった

物と当時考えられたのです。




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    この救命浮標には、上部に電話の受話器がついていて、早速、コンタクトが

  取られたのです。

   「 モシモシ モシモシ ダイジョウブカ カンナイノ ジョウキョウシラセ。」

   と、電話をすると、 16時20分頃、 第43潜水艦の 機関長、小川機関大尉

   と思われる人物から、 逆に、 「 いったい 何が起こったのか。」と、問い合

   わせる質問が聞こえてきたそうです。



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   機関室の乗組員から見ると、潜水艦の艦の外の事はわからないし、見えない

 わけです、 当時の記録によると、 「ドーン。」 という大きな音がして、艦が急に

 傾斜したと思うと、電源が切れて真っ暗となり、 さらに立っていられない程度

 艦が傾いて、艦の動きが止まった物の電源が回復せず、2つ備え付けの懐中

 電灯を節約しながら使用し、 隔壁を叩いて モールスを送っても、司令塔から

 返事はなく、 全く連絡が付かないと話していたそうです。 

 このような事情で、艦内が電源が喪失して、暗闇となり傾いていて歩行が困難

で司令塔と連絡が付かず、勝手に 浮標を操作するのをためらい、7時間も経過

 してやっと それを使用した経過が電話で伝わったのです。



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    これが挿絵ですが、 艦尾の救命浮標は、小川機関大尉の独断で操作され

  艦尾の後から、ロープをつけたまま浮き上がり、そして海面に到達したわけです。



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 これらが海面に浮き上がり、 衝突後、7時間も経過して やっと第43潜水艦の

 沈没位置が特定されたのです。

 現地は夕方で、日が沈みだしたのです。

 当時の現地の龍田の艦橋では、 衝突時に 潜水艦の艦橋の前付近に乗り上げ

 たので、 それによって、潜水艦の側面が大きく破損し、一瞬で浸水し、潜水艦

 の司令塔などの艦の前部は全滅しているのではないかと推測され、 当時

 艦を統帥していた先任士官の 中比良 義太郎 海軍大尉【 海兵41期】ら

 潜水艦の航海科の乗組員らは既に水死している可能性が非常に強いと言う事

 になっていったのです。


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  当時の記録では、 「懐中電灯の電池が少なくなり、着底後、7時間が経過し、

  空気が悪くなってきたので、早く救助を頼む。」と 懇願する 小川機関大尉の

  電話連絡が伝えられていったのです。


   【 明日に続く。】