第1556回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1555話 第43潜水艦 桑島 新 海軍大尉の事。


                          2016年6月27日月曜日の投稿です。





イメージ 1
 


 1924年 大正13年3月19日の朝の9時頃発生した、軽巡洋艦 龍田と

第43潜水艦との衝突事件は、あれよあれよという間に、時間が過ぎていき、

前話で紹介したように、潜水艦の艦内と連絡が付いたのは、事故発生から

7時間程度過ぎてからであったのです。

 そして、 「 小川機関大尉より、 呼吸が苦しい、救助を早く頼む。」と連絡

を受けたのですが、 付近は夕方となり 救助が難しかったのだそうです。



イメージ 2




当時、潜水艦は、日本海軍の最新兵器で、その行動、 内部とも 極秘扱いで、

通常艦艇の佐官や尉官達は、 情報を持っていなかったのです。

 戦後のいろんな人のお話を総合すると、 当時、第43潜水艦という潜水艦は、

艦長は不在であったらしいのです。

  と言うのが、数年前の加藤内閣の時からの軍縮で、多くの将官、佐官が予備役

にされ、艦長は、 複数の艦の艦長を掛け持ちするようになって行ったのです。


イメージ 3



     衝突した側の、龍田の艦長も、 書類上は 吉田 茂明 海軍大佐となって

  いたのですが、よその艦と掛け持ちで、当時乗り組んでいなかったのです。

  そして、1週間後、3月25日になって 松崎 直 海軍大佐が着任することに

  なるのです、 そして、第43潜水艦も 艦長は 当時不在であったのです。



イメージ 4



当時の言い伝えをまとめてみると、 潜水艦の行動は現在もそうですが、 その

行動内容は隠密で、当時 第43潜水艦の先任尉官は、 海軍兵学校 第40期卒

桑島 新 海軍大尉  群馬県出身であったようです。

そして、海軍兵学校 第41期卒 中比良 義太郎 海軍大尉が 1年後輩で乗り組

み機関室には、小川機関大尉が乗り組んでいたようです。

 通常、 潜水艦の艦長は、海軍少佐がその任にあたることになっていたのですが

 当日は 不在であったので、 潜水艦隊司令部は、1番先任の桑島 新 大尉に

 艦長心得 という立場て゛、 桑島大尉が第43潜水艦の指揮を取っていたよう

 です。



イメージ 5



 では 当時、この第43潜水艦はどのような事を行っていたのかというと、

 1隻の小型船を目標にして、 強襲訓練を行っていたようです。

 ところが、 その最中、 衝突事故になった様です。

 その事故の位置というのは、諸説があって、 佐世保港の入り口の高後崎

 の水道を西に進むと、 片島という小さな島があるのですが、ここの北の

 浅瀬があって、 ここを伏瀬という 浅瀬の難所がありまして、座礁防止の

 為に小さな灯台のような 伏瀬灯標があるのです。

 ここから南に85度 3海里ほど進んだところと言う説とか、色々あるのです。

 当時の言い伝えとして、 大変潮の流れが速く、 水深が38メートル程度

 であったそうですが、 救助が難航していったのです。




イメージ 6



    潜水艦の司令塔の下にいた、 桑島 新 海軍大尉以下 13名は、衝突時

   一気に海水が浸水し、 殉職、 そして 機関室には、点呼を取ったところ、

   暗闇で返事があったのが、18人であったのです。

   佐世保海軍工廠から、技官が派遣され、電話回線で、「 気蓄機の空気を

   少しずつ艦内に出して、とうざをしのげ。」と、連絡が伝えられ、 空気清浄機

   を6個 18人で、 つまり 3人に2つの配給で、 使い回しして、なんとか

   呼吸を続けるようにと指示が出たのです。




イメージ 7

   


      救難浮標の電話回線からは、「 息が苦しい、 早く救助を頼む。」と、

      声が何度も聞こえてきたのでした。

      現地は日が沈み、 夜を迎えていったのです。


      【 明日に続く。】