第1557回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第1556話 第43潜水艦事件 水圧の事。 2016年6月28日火曜日の投稿です。



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  第43潜水艦の総員48名の乗員の内、艦長心得 桑島 新 海軍大尉、 

 次席指揮官 中比良 義太郎 海軍大尉 など30名の水死が推測され、一刻

 も早く機関室などの後部に配置されていた18名の救助が求められたのですが、

 どうして早く救助出来なかったのかというと、 それは水圧という問題が当時あった

 のです。

 当時、どんどん浸水が続き、機関室を退避し、となりの電動機室に暗闇の中、

 移動していたようですが、そこも浸水がじわじわ続き、ついに腰の高さまで浸水

 してきたと電話連絡があったそうです。

 事故から8時間近く経った 16時45分頃、 小川機関大尉より、「両舷の電動機

が水に浸かり水没した。」と報告があったそうですが、 電源を喪失したため、排水も

出来ず、状況はどんどん悪くなっていくばかりであったそうです。




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  では、「 何をしとるんや、 潜って助けにいかんかい。」と言いたくなるのですが

  大正時代の水深38メートル、40メートルというと、水圧があって、 おまけに

  現地は潮の流れが速く、救助に行けなかったようです。

  そして、内部からハッチを開けようにも、水圧で扉が開かなかったようです。

   極端な話ですが、戦後の自家用車で海の桟橋から海中に車が落下したとし

 ます、 すると 沈み出す訳ですが、内部に空気があって、 車が5メートル

 海中に沈んだとすると、 もう 内部から外に車のドアが開かなくなるそうです。



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 それはどうしてかというと、水の圧力がかかるわけです。

 そして、その8倍の水圧、 つまり水深40メートル程度の水圧がかかりますと、

 人間の力では、動かすのは無理なのだそうです。


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 事故発生から10時間程度経過した 19時30分頃 救命浮標の電話を聞いていた

 海上の海軍関係者の話によると、 潜水艦の内部から、万歳を三唱するような

 声が聞こえてきたそうです。



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 それから30分後、 別の小さな声で、 穴見 兵曹長なる人物から、「 みな

 遺書をもっております、あと、2、3人しか残っていません。」と申告があり、

 
 20時38分 小さな声で、「だだ、ただ、天命を待つ。」と ささやく声がして、

 その後、 まったく連絡が取れなくなったのだそうです。


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   第43潜水艦の乗員は、事故発生から11時間程度で 残念な事に全滅したと

   言い伝えられています。



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     その後、 海上に引き揚げられたのは 昨年の潜水艦事故と同様に1ヶ月

   後の 翌月の 4月19日であったそうです。


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  日本海軍は、初期はアメリカの潜水艇からスタートし、その後、英国製の潜水艇

を調達し、 第1次世界大戦が終わると、 井上 成美 海軍中佐が ドイツの潜水艦



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を接収し、 山口 多聞 海軍大尉らが 命をかけて 日本に長期航海の後、この

潜水艦を持ち帰り、 その後、研究して 国産化して、ドイツのUボートを模倣して

独自の発展を遂げていくのですが、ちょうど 私達が海軍兵学校に在学中の頃は

潜水艦の沈没事故が多発し、 多くの人が亡くなって行ったのです。



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そのような訳で、 これらの事故の記事が新聞に紹介され、 私の父のやぞうが

それを読んで、 私が帰省して、 父が私の顔を見る度に、「 美津雄、美津雄、

飛行機と、潜水艦だけは、乗ったらあかんでーーぃ。」 と語る理由になって行った

のです。


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           【 日本海軍に接収された ドイツのUボート 】


  潜水艦の乗員の多くの悲惨な死は、「 皇国【おくに】の為に。」 なる 言葉の

  元に、顧みられず、 多くの悲劇が起きていったのですが、その事故、その事故

  の毎に、 反省会が開かれ 新しい救助方法が提案されていったのです。

  私の記憶によると、この第43潜水艦の衝突沈没事故の後に、 お寺の釣り鐘

  からヒントを得て、 釣り鐘の形をした、潜水艦救助の潜水艇のような物が開発

  されていったのですが、 また 順番に紹介して行きたいと考えています。


  【 明日に続く。】