1565回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第1564話 海軍機関学校生徒の事。 2016年7月6日水曜日の投稿です。



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   【 海軍の実力者 山本 権兵衛元総理の娘婿 財部 彪 海軍大臣



   昨年、お話を紹介したのですが、1923年 大正12年5月29日に 私達が

在校する、江田島海軍兵学校に 当時の海軍大臣 財部 【たからべ】海軍

大将が視察に訪れて、 千坂 智次郎閣下が退任し、 谷口 尚美 海軍中将が

海軍兵学校に着任したばかりだったのですが、そんな 谷口閣下に、財部海軍大臣

は、私達の一期上のクラスの 第51期の生徒が卒業したら、 江田島の海軍

兵学校の一般人の職員を大量に解雇し、 生徒数を大幅に削減するよう、 谷口

 校長に命令して 東京に帰って行ったのです。


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                    【 加藤 友三郎 内閣総理大臣 】


  どういうことかというと、 八八艦隊計画という大艦隊構想に沿って、海軍士官の

大量養成が決定され、 私達の3年前から大量採用に方針が転換され、どんどん

海軍兵学校の生徒が千人近くになっていったのですが、加藤軍縮により八八艦隊

計画は廃止され、 余剰人員が増えていったのです。

そのような事情で、7月初旬に、海軍兵学校の一般の職員が大量解雇されたのです。



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「 御国の為だ、 辛抱してくれ。」 と、多くの人が解雇され、 江田島では失業が

広がって行ったのです。

そして、 加藤 友三郎 内閣総理大臣が死去し、 関東大震災があって、




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   その後、 海軍機関学校の校舎が 関東大震災で被災し、財部海軍大臣

決定したのは、 海軍機関学校の江田島への移転であったのです。

震災から12日後、 第51期の生徒の卒業したスペースに、 海軍機関学校の

生徒を移動させることが発令されたのです。


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          【 特務艦  迅鯨 じんげい  艦長 神代護次 海軍大佐 】


以前、関東大震災の時の草鹿 龍之介 海軍大尉の被災時のお話を紹介した

時に横須賀鎮守府 司令長官 野間口 海軍大将に、迅鯨の艦長の神代海軍大佐

が挨拶に来られて、 草鹿 副官が面会の要望を聞いている時に、 「 ごぉーっ。」

と言う音の後に、巨大地震が襲い、二人とも机の下に入り込み、 ホコリまみれに

なったという、お話を紹介したのですが、 その 神代海軍大佐は、その後、 迅鯨で

関学校の生徒と、その職員、家族を 江田島に輸送するように、横須賀鎮守府から

命令を受けて、 大正12年 震災から28日後の、9月28日に当時408名を

江田島の江田内に輸送してきたのです。



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この、後の潜水母艦と呼ばれる事になっていった 迅鯨 という特務艦に乗って、

関学校の生徒が 江田島疎開して来たのですが、 それらの生徒と私達

海軍兵学校の生徒が一緒に 卒業式をすることになって行ったのです。


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   海軍兵学校と、海軍機関学校の初の合同卒業式が、大正13年7月に

   計画されて 準備が進められていったのです。


   【 明日に続く。】