第1574回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第1573話 練習艦隊配属の内示の事。 2016年7月15日金曜日の投稿です。
あれは、 海軍兵学校の卒業式の 前日のことでありました。
私達は、ラッパ信号で、集合を命じられたのです。
当時は、 この ラッパの音楽によって ほとんどの命令が伝達されたのです。
入校した当時は、メロディの意味がわからず、大変な思いをしたものですが、
3年間という期間は、あっという間に過ぎていったのです。
なにをやらさせられるのかと思っていると、 1号生徒は 次の配置場所に移動
する準備を行う、準備命令の伝達であったのです。
いよいよ、私達に 次の配属場所が発令されることになって行ったのです。
江田内に 入港していた 練習艦隊の 旗艦 浅間、 八雲、 出雲の
3隻の内、 なんとか、志願してでも 浅間に乗り組んでやろうと、企んでいたの
ですが、 残念な事に、 もう配属が決められていたようで、 私達が希望を
言えるような雰囲気ではなかったのです。
そのような中、 私は どの艦であったかというと、 例の 男前の 海の男という
感じの 鹿江 【かのえ】三郎 海軍大佐の 八雲 【やぐも】への配属であったの
です。
【 当時の八雲艦長 鹿江 三郎 海軍大佐 佐賀県出身 】
私は、 「なんや、 残念やがな。」 と、思ったのですが、 仕方が無く、予想
していた通りであったのです。
と言うのが、 源田の言う通り、 235名の卒業生を 3で割ると、私は真ん中
になるので、 2番目の 八雲 に配置されると予想していたのですが、
驚いたことに、 井上 武男 【 水戸中学卒】生徒は、浅間への配属であった
のです。
「 これは、天佑だっぺっ。」 と、 当時ずいぶんご機嫌であったのですが、
後から考えると、 どうも 成績の番号順ではなかったようです。
【 大正13年当時の 高松宮宣仁殿下 】
浅間に乗艦されることになり、 ハンモックナンバーの当時1番であった 入江
生徒などは、 旗艦 浅間 の七田 【ひつだ】今朝一 海軍大佐の元に配属
になっていたのです。
ところがです、 私が、喜ぶ井上生徒に、「 よかったがなーー。」 と話して
歩いていると、 不機嫌そうな 小池 伊逸 【 こいけ いいつ 奈良県出身】
生徒と出会ったのです。
「 どないしたんや。」 と私が問うと、 「 淵田生徒、 聞いてくれ、出雲に
配属が決まった。」と言う、 小池君は、私と同郷で、年下ですが、私よりたしか
30番程度 ハンモックナンバーが上であったのですが、 3番艦の出雲に
配属が決まったようです。
私が、見かねて、「 まぁーー そうーー思い詰める事もないがな、海軍言う
とこは、 早ければ半年、 遅くとも1年後には みんな転勤の配置換えやがな。」
と、 そんなお話をしたと記憶があります。
日本海軍という所は、1年に1回 必ず移動で転勤があったのです。
いやな上司がいたり、 おかしな場所でも、1年の辛抱やと考えて、みんな
がんばれたわけです。
海軍という所は、 毎年 11月から12月の初旬に 移動が大規模にあって
今は、7月でありますから、4ヶ月か5ヶ月の辛抱というわけです。
しばらくすると、源田生徒が立っていたので、「 おーーう、源田、 浅間組は
うらやましいやないか。」 と、声をかけると、 面白くなさそうな顔をして
「 貴様は、どこになったんか。」 と、問うので、 「 わいは、 八雲やがな。」
と話すと、 しばらくして、 「 わしゃーーのーー、 出雲になったんじゃ。」と言う、
私が、「 そりゃーーさえん話しやがな。」 と言うと、「 どういうことかわからん
けぇ、 分隊監事殿に聞いてくるけぇ。」 と言って、 建物の方に走って行ったの
でした。
旗艦 浅間に乗り組まれ、 成績のよい生徒も 浅間に配属となったのですが、
どういうわけか、 源田や、小池 などの、 ハンモックナンバーの18番から
それ以後の生徒は、出雲に配置されたようです。
次の配置場所に荷物を移動するわけですが、当時は教科書は、返納する
必要があったのです。
返納して、 次のクラス【 下級生】の生徒が使用していたのです。
私物をかたづけて、 寝台を整理しながら、「 あー こことも おさらぱや。」と
思ったのです。
【 明日に続く。】